「あのさ」
「何?」
「アタシ、思うんだけどさ。日本ではさ、下品で暴力的で、人間としてヤバい事してる奴らばかりが『男らしい』とされて、優しかったり上品だったり、人間として望ましい態度は『女らしい』とされてるよね? そんな『DQN 』な男がウヨウヨしてる今の日本はホント、ヤバいよ」
「確かにね、ヤバい」
「こんなんじゃ、若い女の子たちがフェミニストになるのもしょうがないよね」
ふん、なるほどね。だけど、女なんてそんなに甘くないよ。
私は電車を降り、目的地に向かう。
一部のフェミニストは「女は男ほどには陰湿さや加害欲を持たない」なんて言っているけど、それは嘘。鼻で笑っちゃうお話。たいていの女は権力がないから、男ほどには支配欲を満たせないだけ。
私の中学時代にも、ジャイアンを女にしたような奴がいたのだから。しかも、ジャイアンほどには義理堅くもない、薄情な女だったし。そいつにいじめられた私は、当然いまだにそいつを恨んでいる。
戦後間もなく生まれた私の祖母は、自分の継母(すなわち、私の義理の曾祖母)に反発して、自分の言う事をおとなしく聞いてくれる実の妹たちを連れて上京した。下手な男以上に商才や人心掌握能力のある祖母は、それを元手に下手な男以上に稼いでいたし、自由恋愛で私の祖父と結婚した。そして、後に大物占い師として成功した。
だけど、祖母は決してフェミニストなんかではなかった。かつては怪しい店で女性従業員たちを色々な意味で搾取していたし、後には「名誉男性」的な物言いで、占いの女性顧客に古典的なジェンダー観をゴリ押ししていた。自分以外の女たちを見下しているあの人が作り上げたのは、自らを家長として君臨させる家庭内帝国だった。
自分の意見だけが正義で、家族の意見を全く聞かず、しばしば暴力的な手段を用いた。自分の子供たちの結婚相手を一方的に決めてしまい、それで生まれた孫たちの一人が、私だ。
私の祖母の例もあるように、女だって、男と同じような地位や権力を手にしたら、男と変わらぬ支配欲が露わになって、他人を足蹴にするのだ。
私の母は、大叔母たちと同じくおとなしい女だ。幸い、祖母が母に押し付けた私の父は温厚で賢明な人間なので、モラハラDV夫にならなかったが、母も父も祖母を恐れていた。だけど、私はもう恐れない。なぜなら、あの人は認知症を発症して、施設に入所しているからだ。
優しい祖父は、今も優しい。施設で祖母と一緒に暮らしている。そして祖母は、かつての苛烈さが嘘であるかのように、祖父と同じ優しい人格に変貌した。しかも、過去の記憶を捨てた上で。
誰かがある人気漫画の主人公について、こう言った。この主人公は、役職が剥ぎ取られた素の状態の「個人」としては生きていけない不幸な人だと。しかし、祖母はかつての地位と人格を捨てて幸せそうだ。
「ばあちゃん、水ようかん持ってきたよ」
「あらぁ、ありがとう」
これがかつて「魔王」として君臨していた女だとは、誰が信じようか? 祖母は喜んで水ようかんを食べる。この人が私を覚えているかは、知らない。新米の介護士か、単なる来客だと認識しているのだろう。私は大叔母たちの代わりに、祖母を見舞う。
そもそも、祖母にとっての私は「孫娘」ではなく「孫息子」なのだ。そう、私は生物学的には男性の身体で生まれたが、心は女性の、いわゆるトランスジェンダー女性だ。私は性別適合手術を受けるため、大学進学をあきらめて、色々な仕事に就いて資金を貯めた。両親は「娘」としての私を認めてくれた。そして、私は再び大学進学を目指している。場合によっては、海外留学も視野に入れている。
身長170cm程度のきゃしゃな体格の私は、女性ホルモン投与と性別適合手術を受けて、少なくとも外見的にはシスジェンダーの女性と大差なく過ごせる。だけど、私は今でも共同浴場に入る勇気はない。
まだ男の子だった頃の私は、初めて父と一緒に男湯に入った時は怖かった。もう女湯に入る歳ではないと見なされた私は、母と離れるのが怖かった。幸い、父と一緒だったからまだ良かったが、背中に鮮やかな刺青を入れている知らないおじさんたちが怖かったし、他にも嫌らしい目で私を見てくるおじさんが嫌だった。
「薫や」
「なぁに、じいちゃん?」
祖父が私に声をかける。幸いな事に、私は元々男女兼用の名前を付けられているから、戸籍上は性別を変えただけで、改名をする必要はない。私の名付け親は、このじいちゃんだ。
「お前、留学するのか?」
「うん…ある程度資金を稼いでから、考える」
「俺はばあちゃんと出会うまでは留学しようかと思っていたんだ。お前は好きな事をして生きていきなさい」
祖父は、祖母とは違って若い世代に対する理解がある。少なくとも、理解しようという良心がある。世代の割には進歩的な考え方が出来る祖父は、現代の若い「女性」として生きる私を応援してくれる。
「ばあちゃんはお前を忘れてしまったけど、俺が知っている若い頃に戻ったよ」
祖父は苦笑いする。そうだ、かつては「魔王」だった祖母にも、若い頃はあったのだ。祖母の若い頃の写真は女優のような美人であり、母も私もその面影を受け継いでいる。そのおかげか、私は顔に手を加える必要はなかった。
「じいちゃん、ありがとう」
私は施設を出て、駅へ向かう。電車を待ちながら、缶入りミルクティーを飲む。
電車が来て、私は車両に乗る。幸い、空席がある。私は膝をきちんと閉じて座る。電車や地下鉄の男性客は、足を広げて無駄なスペースを占領する礼儀知らずが少なくないが、この車両にはその手の乗客はいない。
私はフランスに留学中だ。その私のもとに、祖母が亡くなったという知らせがあった。
私はもう、日本には戻らない。そう決めた。
【サザンオールスターズ - 海】