Political Idiot ―司馬遼太郎『義経』―

 ある日、私は自分の血中日本史濃度が足りないと思い、司馬遼太郎氏の『義経』(文春文庫)を読んだ。当時の私は、いくつかあるブログの一つでトマス・マロリーの『アーサー王の死』のあらすじを書いていたので、そのために「井村アーサー」を読んでいたのだが、その反動で日本史ネタの本を読みたくなったのだ。 

「判官びいき」という言葉があるが、司馬氏の義経の描写は、手塚治虫氏の『火の鳥』に登場する義経と同じく、判官びいきから距離を置いている。司馬氏は別に、手塚氏のヴァージョンみたいな嫌な奴として源義経という人物を描いてはいないが、それでも義経を精神的にあまりにも未熟過ぎる「子供」として描いている辺りは、十分偶像破壊的な人物造形だと思う。 


 ただし、現在の日本で源義経という人の人気が下がったのは、手塚治虫と司馬遼太郎という二人の巨匠たちが偶像破壊的な義経像を描いたからというよりも、単に戦国時代や幕末の英雄たちに人気を奪われたからに過ぎないだろう。ついでに、あの忠臣蔵だって、昔ほどの人気はない。吉良上野介が史実では領地で善政を敷いていたのがある程度知られるようになったし、浅野内匠頭が被害妄想で吉良に斬り掛かったとされているし、何よりも、赤穂浪士たちの「討ち入り」自体に現代人が共感出来なくなったからである。

 そして、「ヒーロー」としての源義経もまた、現代の歴史ファンにとっては、どことなく「物足りない」人物になっている。今時の歴史ファンは、もっと政治的に優秀な人物を好む人は少なくないのだ。それなのに、義経という人は、政治的資質はゼロどころかマイナスと言ってもおかしくない。そんな当人の資質を「純粋」などと美化する余地もあるが、その「純粋さ」とは要するに「バカ」である。

 そんな「政治的におバカ過ぎる」義経とは対照的に、異母兄の源頼朝は実に政治的な人間である。頼朝と義経の関係は劉邦と韓信に似ているが、頼朝自身の人物像はむしろ、イギリスのエリザベス1世に近いだろう。そうすると当然、義経はスコットランド女王のメアリー・スチュアートという事になる。メアリーも義経と同じく、非政治的どころか「反政治的」な人物だったようだ。


 多分、司馬氏は思ったのだろう。多くの日本人は「政治的な」人間を好まないのではないかと。大久保利通はかつての盟友西郷隆盛との関係の決裂であまり好かれない。石田三成だって、長い間「嫌われキャラ」だった。現実の現代の政治家たちだって、常に一般人からイチャモンをつけられる立場にある。そんな日本人の「政治家嫌い」の傾向を考えると、三国志の諸葛亮の日本での人気の高さは実に不思議な現象だ。

【Green Day - American Idiot】

 当記事の題名は、こちらのもじり。