中華を旅する「女教皇」 ―陳舜臣『秘本三国志』―

 タロットには「女教皇」というカードがある。「女帝」にバビロニアの女神イシュタル並びにフェニキアの女神アスタルテのような大地母神的なイメージがあるのに対して、「女教皇」にはもっと知的・精神的に研ぎ澄まされた女性のイメージがある。「女帝」が「赤」のイメージならば、「女教皇」は「青」のイメージである(ならば、『ウマ娘』の「女帝」エアグルーヴは、外見的にはむしろ「女教皇」に近いイメージのキャラクターかもしれないが、一見高圧的な雰囲気はやはり「女帝」だろう)。

 例えば、アーサー王伝説のグィネヴィア王妃は、古の大地母神の成れの果てのような存在である。それに対して、湖の貴婦人には「女教皇」のような女性の賢者のイメージがある。我が最愛の漫画『ファイブスター物語』に登場する「詩女 うため」たちとは、ジョーカー太陽星団を見守る「女教皇」である。

 その「女教皇」を三国志の世界に登場させたのが、陳舜臣氏の『秘本三国志』(文春文庫)だ。

 

 この小説全体の主人公は、五斗米道教団の指導者張魯の母親少容 しょうようである。この人は史実では益州の支配者劉焉と密接な関係にあったが、後に劉焉の息子劉璋に殺されている。しかし、この小説での少容は史実とは違って生き延び、中華の民たちを導いて救うために、養子(張魯の義兄弟)陳潜 ちん せんを連れて中国大陸を旅する。

 ちなみに「少容」という名は元々は若々しい容姿を意味する形容詞だが、史実の張魯の母親の名前は不明である。ウィキペディアでは張魯の母親を盧氏または陳氏だとしているが、あくまでも仮説である。もしかすると、陳潜の名前は作者の陳舜臣氏自身ではなく、史実の少容が陳氏だったという説に由来するのかもしれない。

 少容はいわゆる「美魔女」だが、しかしこの「美魔女」という造語は彼女にはふさわしくないかもしれない。現代の有名人に例えるなら、吉永小百合氏のようなタイプの美人だし、吉永さんはファンたちからは「魔女」ではなく「聖女」のイメージで見られるような女性像である。ならば、少容も「美魔女」ではなく「美聖女」と呼んだほうがふさわしい。そういえば、『帝都物語』の目方恵子は清楚な美女だが、同時に物語内で「妖女」とも形容されている。

 

(ある人曰く「『美魔女』という単語は正統派の『美女』とはかけ離れた存在であるのを意味する」。なかなか手厳しいね)

 

 アーサー王伝説のモーガン・ル・フェイは、一般的には「悪役」「悪女」であり、異父弟アーサーと敵対関係になるが、最終的には瀕死の重傷を負ったアーサーを楽園アヴァロンに連れて行く。グィネヴィアが「女帝」であるのに対して、モーガンは「女教皇」である。マリオン・ジマー・ブラッドリーのアーサー王小説『アヴァロンの霧』は、ドルイド教の聖地アヴァロンに住む巫女として、モーガン・ル・フェイ(作品内での名前は「モーゲン」)を主人公にした小説である。そう、モーゲンは少容と似たような立場に設定されている。

 少容は曹操と賭けをした。彼女はモーガン・ル・フェイであり、彼はアーサー王である。さらに、永野護氏監督の映画『花の詩女 ゴティックメード』は、トリハロンが曹操で、詩女ベリンが少容の立場に相当する。そういえば、王欣太 キング ゴンタ氏の漫画『達人伝』には無名 ウーミンの恩人として〈チータイ先生〉なる異民族の女性がいたが、このチータイ先生は仮に『ファイブスター物語』のボォス星に生まれていれば、詩女に選ばれていた可能性があるだろう。同じ事は少容や目方恵子やモーゲンにも言えるし、『ゴールデンカムイ』のアシㇼパとその祖母 フチ やインカㇻマッにも言える。

 

 いわゆる三国志を題材にしたフィクションは、男性たちを主人公にしたものが多く、戦争の描写に重点を置くものが多い。さらに、三国志には「中華思想」という軸がある。それゆえに、中華思想を象徴する国号「漢」を名乗った蜀漢陣営を主役にした『三国志演義』が成り立ったのだが、『秘本三国志』はその『三国志演義』のアンチテーゼである。あの『蒼天航路』登場以前の時代はもっぱら悪役扱いだった曹操は、『秘本三国志』では主役級の扱いだし、少容ら女性キャラクターたちや孟獲ら非漢民族キャラクターたちが重要性を与えられている。宮城谷昌光氏の『三国志』よりもはるか昔に、『三国志演義』のアンチテーゼとしての『秘本三国志』は書かれたのだ。