将軍という名の「名牝」たち ―よしながふみ『大奥』―

 私は人気ゲームアプリ『ウマ娘』にハマったのをきっかけにして、競馬に興味を抱く様になった。それ以前は、90年代に当時の旧コーエーの出版部が発行していた読者投稿雑誌『光栄ゲームパラダイス』で競馬ゲーム『ウイニングポスト』のコーナーが連載されていたのを通じて、当時の有名競走馬たちの名前をいくつか知った。90年代の私にとっては、名馬といえばビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟だった。

 競馬とはいわゆる「ブラッドスポーツ」である。競走馬は歌舞伎役者と同じく、事実上の世襲制の職業である。そして、競走馬の血統とは、父系の血筋である「サイアーライン」と母系(牝系)の血筋である「ファミリーライン」に分類される。そして、競馬の世界において「兄弟姉妹」とは「母親が同じ者同士」であり、父親が同じ者同士でも母親が違う場合は「兄弟姉妹」とは扱われない。前述のビワハヤヒデとナリタブライアンは、父親がそれぞれ違うが、母親は同じなので「半兄弟」関係である。

 前述のサイアーラインとは、つなぎ続けるのが難しいらしい。そして、そのサイアーラインの「危うさ」こそが、人間社会の「家父長制」という制度並びに「男尊女卑」という価値観の不安定さ・不確かさを暗示している。何しろ、母系(牝系)の血筋こそ ・・を「ファミリーライン」と呼ぶのだ。それゆえに、当記事で扱う作品の世界観においては、母系の血筋こそが「確かなもの」だと見なされる。

 

 よしながふみ氏の仮想歴史SF漫画『大奥』とは、架空の疫病によって男性の人口が激減し、徳川幕府の歴代将軍たちの多くが女性として描かれている。彼女たちは表向きには男性名を名乗って将軍の役職を世襲制で続けていくが、それとは別に女性名を私的に名乗って自ら跡継ぎを産む。いわば、サイアーラインの皮を被ったファミリーラインである。そう、「人間のオス」を「人間のメス」に変えて描写しているのは、前述の『ウマ娘』の先駆けである。

 現実のサラブレッドで、並みの牡馬以上に競走馬としての成績が優れた牝馬が特定の種牡馬の「正妻」にされるのは稀であろう(もしオリエンタルアートがG1馬だったら、ステイゴールドの「正妻」にはならなかっただろう)。たいていは、様々な優れた種牡馬たちに種付けされて子供を産むという「一妻多夫」並びに「多妻多夫」制である。そして、『大奥』の女将軍たちもまた、確実に子孫を残すために「一妻多夫」制を採用する(女性だけでなく、男性の不妊症もあるからね)。それこそが、この漫画における大奥というシステムの意義である。

 ちなみに、この漫画における貧しい一般人女性は、自分の夫を得るのが難しい。ある程度社会的地位や経済力に恵まれた女性たちは結婚出来る可能性があるが、結婚する代わりに遊廓で「子種を買う」事も出来る。つまりは、異性愛というものの本来にして唯一の意義からすれば、この漫画の女性向けの遊廓は男性向けの遊廓より「性的な意味で正当性がある」施設なのだ。

 

 ある人は「競走馬として強い牝馬に対しては『名牝』ではなく『名馬』という言葉を使うべきだ。『名牝』という言葉はあくまでも繁殖牝馬として優れた牝馬に対してこそ使うべきである」と言っていた。つまりは、文芸評論家の斎藤美奈子氏の著書『モダンガール論』にある「女の子には出世の道が二つある。『社長』と『社長夫人』だ」という言葉は、人間だけでなく馬にも当てはまるのだ。ステイゴールドの「正妻」オリエンタルアートはまさしく「社長夫人」である。

 三冠牝馬ジェンティルドンナは前述の例えならば「社長」だが、彼女は少なからぬ人たちから「ピンクが似合わない女」だと見なされているようだ。なぜなら、彼女は並みの牡馬とは比べものにならないくらいの競走馬としての成績を残した「名馬」だからである。これがハルウララのような「非名馬の牝馬」であれば、彼女はそこそこ「ピンクが似合う女」だと見なされただろう。要するに、ジェンティルドンナも『大奥』の女将軍たちも「かわいげがない女」という立場である。

 多くの異性と交配して多くの子供たちをもうけられる種牡馬とは違い、繁殖牝馬が産める子供の数は限られている。それと同じ事は『大奥』の女将軍たちにも言える(それゆえに、史実で子沢山だった徳川家斉は史実通りの男性である)。女将軍たちは一般人女性以上に子孫を残す事態を強制されざるを得ない「名牝」たちである(もちろん、この漫画では史実通りに分家の者に跡を継がせる展開も描かれている)。

 

 かつての旧コーエーの出版部は、『光栄ゲームパラダイス』以降もいくつかの読者投稿雑誌シリーズを出していたが、ある読者投稿に「三国志の女体化ゲームを出してほしい」という意見があった。それに対して、他の読者や投稿者たちからの猛烈な反対意見があった。しかし、コーエーの一連の雑誌シリーズの廃刊後、他社のゲームなどで「男性ヒーローの女体化」を描写する作品が色々と出てきた。それは色々な意味で玉石混交である。

 いわゆる「ツイフェミ」という造語に象徴されるような「女嫌いの女」たちは、このような風潮に対して不快感を抱くが、しかし、よしながふみ氏の『大奥』に象徴されるような「フェミニズム的な意味合いを持つ女体化」フィクションもあるのだ。そして、『ウマ娘』という作品群にもまた、フェミニズム的な切り口で作品を味わえる余地があるのだ。

 

 私は『大奥』という漫画の感想のテーマを『ファイブスター物語』(FSS)の詩女 うため たちとの比較として書いていこうと思っていたが、『ウマ娘』に触れる事によって、気が変わった。FSSの詩女たちがタロットの「女教皇」のイメージであるのに対して、『大奥』の歴代女将軍たちはエアグルーヴのような「女帝」である。史実のエアグルーヴは「名馬」であると同時に「名牝」でもあった。

【Madonna - Into The Groove】