ネミ

 舞台『ファウストの聖杯』の全公演は無事に閉幕し、私は大学入試に備えて学業に専念する。セカンドアルバム『Sweetness』の売れ行きは順調だが、私はメディアでの露出を控える。

 私は月に一度、アガルタに検診に行くが、マツナガ博士は今回、ある人を紹介した。

「実験動物のエリアにいるリチャード・タヌキコウジだ」 

「初めまして、こんにちは」 

 タヌキコウジ(狸小路)という奇妙な苗字の若い日系人の男性獣医師が挨拶した。この人はどことなく、私のバックバンドにいるジミー・フォスファーに雰囲気が似ている。文化系の優男、そんな雰囲気だ。

 タヌキコウジ博士、いや、呼びにくい。リチャード博士は私に「君に合わせたい人物…いや、犬がいる」と言った。犬? なぜ犬なのだろうか? よく見ると、リチャード博士の足元に一匹の犬が座っていた。雄の白いミニチュアブルテリアだ。

「この子は、人間並みに知能を高めたサイボーグ犬だ。彼は喉に組み込まれた装置で、人間と会話が出来るんだ。彼自身も、君に興味があるんだよ。メフィスト、挨拶だ」 

「初めまして、こんにちは」 

 その犬、メフィストは電子音声で挨拶した。まるで市販の犬型ロボットのようだが、この犬はまごう事なき生きた犬だった。マツナガ博士はニンマリ笑いながら言う。

「俺がこいつに名前を付けたんだ。ファウスト博士には、メフィストフェレスが必要だからな。お前、高校を卒業したら坊主 ラッド と暮らすんだろ? お前らにこいつの『モニター』になってもらうぞ」

 メフィストは私への好意を示すように、尻尾を振っていた。


 私たちは実験動物エリアに行った。様々な動植物が集まるところだが、そこには犬たちの訓練所があった。

「俺は初歩的な訓練は受けている」 

 メフィストは言う。ここは盲導犬などの介助犬や警察犬、麻薬探知犬や軍用犬らが訓練するエリアだ。

「あんたら人間が使う香水などの匂いについても勉強しているけど、香水の種類は男女で違うだろ? 世代の違いもある。それに、元々の体臭の違いもあるし、体調次第でも様子が違う」 

 私はメフィストにそう言われて、自分の体臭が気になった。ここに来る前にシャワーを浴びたし、コロンを付けている。メフィストはさらに言う。

「あんたには不快な体臭はない。体臭は穏やかな方だけど、いい匂いだよ。そのコロン、百合の香りがベースでしょ?」 

 そう、私は百合の花の香りが好きだから、百合の香りをベースにしたコロンを愛用している。ミヨンママはそんな私をイメージした香水の発売を企画しているが、さらに邯鄲トイズから私をモデルにした着せ替え人形を発売する企画もある。

 その人形が発売されるのは、おそらく再来年だ。 

 リチャード博士は言う。

「僕は来年、チャオ君の家の近くにクリニックを建てて住む。この子の定期的なメンテナンスのためにも、近くにいた方がいいからね。もちろん、表向きは普通の動物病院として開業するし、一般の患畜も診るよ」


 私とマツナガ博士は、リチャード博士とメフィストに別れを告げ、ミヨンママが待つ応接室に向かった。廊下を歩きながら博士は言う。 「ロクシーだったら、いかにも濃厚な匂いの香水を好みそうだな」 

 私はロクシーと共演した時を思い出した。彼女に挨拶した時、確かに「ある種の」女性を連想させる濃厚な匂いを漂わせていた。実際の香水の匂いだけではない。「女」としての匂いが強烈なのだ。

「ロクシーはモデル時代から虚名臭かったが、それをごまかすような香水を好みそうに見えるんだ。俺はあの女の過去を知らんが、あいつには間違いなく『影』がある」 

 私がロクシーを嫌いになる前から、博士は彼女を嫌っていた。海千山千の博士の事だから、過去の経験に基づいて彼女のような女性を嫌っているのだろう。

 私たちが応接室に入ると、ミヨンママが深刻な表情をして待っていた。

「アスターティ、大変よ。あの子、ヒルダが大変な事になっているのよ」


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 ミヨンママが言うには、ヒルダの両親の離婚が成立したという。しかし、ヒルダは両親から離れたいので、ミヨンママに連絡を取り、マロリー法律事務所の弁護士に相談した。 

 ミヨンママは、弁護士たちと共にヒルダの両親と話し合い、彼女を引き取る事にした。私はハイスクールを卒業するまで、ヒルダと共にヴィスコンティ家で暮らす。ミヨンママは、ヒルダを邯鄲ドリームの所属ミュージシャンの卵として預かる事になった。

 そして、年が明けた。これから大学入試が待っている。ラストスパートだ。 

 私は一生懸命勉強した。フォースタスとはしばらく会っていない。試験に合格するまでの辛抱だ。今の私は芸能活動を休んでいるが、今時の芸能ニュースはあえて見ていない。だから、最近、どんな歌手がデビューしたのかを知らない。

「アスターティ、差し入れだよ!」 

 ヒルダがおやつを持ってきた。以前の舞台稽古の休憩時間に食べたのと同じ店のドーナツだ。そうだ、休憩だ。

「やっぱりおいしい〜!」 

「あたし、このチョコが好きだな」 

 ヒルダは、あの時フォースタスが食べていたのと同じドーナツにかぶりついていた。険悪な関係の両親から離れたこの子は、すっかり精神的に安定しており、本来の無邪気さを取り戻していた。中学校でも特に問題はないようだし、この子が家に連れて来る女友達も信用出来そうだ。 

 ヴィクターはミナと結婚して以来、この家に住んでいるが、二人は今、会社にいる。二人の息子アイヴァンは、邯鄲ホールディングスビルの中にある保育所に預けられている。シリル父さん…邯鄲ホールディングス会長のシリル・チャオ氏にとっては、目に入れても痛くないくらいかわいい孫だ。


「あたし、あんたと同じ〈ビッグ・アップル〉の試験を受けるよ」 

 ベリンダが言う。〈ビッグ・アップル〉とは元々、かつての地球のニューヨーク市の別名だったが、現代のアヴァロンでは、ここアヴァロンシティの別名だ。しかし、ベリンダの言う〈ビッグ・アップル〉とは、アヴァロン連邦最難関の大学であるアヴァロン大学の事だ。 

「経済学部に行くつもり。無事に入って卒業出来たら、邯鄲ドリームに入ってみせるよ」 

 私は驚いた。まさかベリンダが、邯鄲ドリームへの就職を考えていたとは。

「社会人になっても、あんたとは身近な関係でいたいからね」

「ありがとう、ベリンダ」 

 私はベリンダの言葉を思いだしながら、机に向かう。ここ、試験会場には私たちと同じ高校の生徒たちが何人かいる。 

 アヴァロン大学はその名の通り、この惑星を代表する大学、すなわち世界の最高学府だ。当然、各地から受験者たちが集まっている。かなりのプレッシャーだ。しかし、負けられない。 


 全ての科目の試験を受け、私は会場を出た。手応えはあった。しかし、この惑星全体から選りすぐりの受験者たちが集まっているのだから、油断は禁物だ。 

「アスターティ!」 

「ベリンダ!」 

 私たちは合流し、カフェに向かった。

「前祝い…って、気が早いか」 

「うーん、さすがにねぇ…」

「大丈夫、あたしら絶対に合格する!」 

 ベリンダは冗談半分で強気に言ったが、それでも内心不安のはずだ。もちろん、私も不安でいっぱいだったが、ベリンダの励ましで何とかなる気がした。

 私たちがカプチーノを飲んでいると、私たちと同じくらいの年頃の女の子が入ってきた。黒いショートヘアの美少女。何だかモデルみたいだ。

 それで私は思い出した。今の私は、あえて芸能ニュースを見るのを避けていたので、最近の芸能人についてよく知らない。以前、初めてロクシーを見かけたように、彼女も芸能人なのだろうか?

 問題の彼女は一人だ。もしかすると、私たちと同じく入学試験の帰りかもしれない。ならば、運良く合格して入学すれば、キャンパスで彼女を見かけるだろう。彼女は一人、私たちから少し離れたテーブルの席につき、飲み物とケーキを注文した。

「あの子、付き人がいないのね」 

「付き人?」 

「あれ、あんた知らないの?」

「誰?」

「ロクシーと同じ事務所にいるモデルよ。そのうち、歌手デビューするらしいけど」


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 そのモデルの芸名は「ネミ」といった。年は私と同じ。彼女は赤ちゃん時代から、モデルとして活動していたという。私が今まで彼女について知らなかったのは、普段読むファッション雑誌のモデルに対してさほど興味がなかったからだ。しかし、このネミという女の子は、他のモデルたちと比べて、明らかに異彩を放っていた。

 色白の肌に、艶やかな黒髪、鋭い紫の目。華奢な体つきの美少年のような美少女。ロクシーのようにあからさまに女性的な色気ではなく、中性的な雰囲気を放つ美貌だ。

 私とベリンダは、無事に入学試験に合格した。そして、私はフォースタスとの約束通り、私たちが買った一軒家に引っ越した。二階建てで、部屋数も十分だ。私もフォースタスも、それぞれの仕事部屋がある。以前、アガルタで出会ったサイボーグ犬メフィストも一緒だ。

 私たちの家には小さな庭がある。春には桜の木が花を咲かせ、夏には百合の花が芳香を放つ。


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「やっぱり桜ってきれいね、フォースタス?」

「ああ、いい写真が撮れるな」

「今年もドンドン撮るわ」 

 桜吹雪が美しい4月、日曜の昼下がり。大学の入学試験に合格した私は、セントラルパークの写真を撮っている。あとは、9月の入学式を迎えるのを待つ日々。フォースタスとメフィストも一緒だ。 

「この絶妙な色加減がいいのね。濃過ぎても、薄過ぎても、バランスが良くないの」

「毎年撮っても飽きないか?」

「全然。毎年同じ桜の花なんてないわ」 

「まあ、孫子の兵法なんかでも、全く同じ戦争なんて一つもないらしいし」

「やだ、フォースタス。そんな例え」

「ごめん」 

 フォースタスは、足元にいるメフィストに訊いた。 

「おい、メフィスト。お前、大の方は大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だ。さっき家でしっかり踏ん張って出し切ったからな」

「水、飲むか?」 

「うん、ありがとう」 

 フォースタスはバッグから犬用の水の容器を取り出し、メフィストに水を飲ませた。

 私は一通り桜の写真を撮り終え、ふたりに声をかけた。

「あのオープンカフェでお昼にしましょう」

 私たちは公園の中にあるオープンカフェに向かった。 

 心地よい南風が、桜の木々の間を通り抜ける。そこでフォースタスがつぶやく。

「ファウストの聖杯」 

「え?」 

「聖杯は人間に恵みの水を与える。俺にとってお前は聖杯なんだよ」 

「フォースタス…」 

「ありがとう、アスターティ」 

 桜吹雪がさらに美しく映える。私はフォースタスの姿がまぶしかった。ずっとこの人と共に在りたい。私は強く願う。 


 私はミヨンママと一緒にスタジオに行った。サードアルバムの打ち合わせのためにリンジーに会いに行ったのだが、どこかで見かけた誰かがいる。 

 ネミ。

 間違いない。あのネミだ。 

 ネミは賢そうな顔立ちだが、根本的に他人に対して無関心そうな雰囲気がある。そこがかえって、ある種の人間を惹き付けるのだろう。彼女からは、ロクシーのようなトゲトゲしさは全く感じられない。ただ、他人との関係に対して無頓着そうに見える。 

 しかし、彼女は確かロクシーと同じ事務所に所属しているはずだ。ひょっとして、すでに私と彼女は共演NGリストを共有しているのだろうか? 少なくとも、ミヨンママは彼女について何も言わない。ママにとっては、かつての古巣に所属する芸能人は全て仮想敵かもしれないが、私は今のところは、ネミに対しては何の悪感情もない。ただ、何となく存在が気になるのだ。

「初めまして、こんにちは」 

 私はネミから声をかけられた。

「こ、こんにちは」 

「同じ〈ビッグ・アップル〉に入学出来て良かったわ。これからもよろしくね」 

 ネミは一人でスタジオを出て行った。 

 私はスタジオに入り、リンジーに会った。そして、先ほどのネミについて訊いてみた。

「ああ、あの子ね。あの子の楽曲も私が手がけるのよ。あなた、良かったら彼女に楽曲を提供してみない?」 

「え…?」 

 私はミヨンママの顔を見た。特に悪感情らしき様子はない。ママは言う。 

「ネミ…ネミッサ・ハラウェイ。私は赤ちゃんの頃からあの子を知っているけど、芸歴が長い割には、スレていないわね。子役上がりの女優さんの中には、同世代やもっと若い世代の同業者を『ぽっと出の分際で』と見下す人もいるけど、少なくともあの子は、あからさまにそんな態度は出さないのね」 

 なるほど、そうか。もし本当に、彼女が他の同業者を見下さないなら、おそらくは、相手に対してさほど関心がないからだろう。ロクシーの嫉妬深さは、他人への関心の裏返しだろうけども、ネミからはそんなトゲトゲしさは感じられなかった。


 ✰ 


 7月。フォースタスはユエ先生と一緒にライラさんの墓参りに行っている。そして、私はベリンダとネミと一緒に映画を観に行った。 

 メフィストはリチャード博士のクリニックに預けている。私もフォースタスも出かける時は、必ずリチャード博士にあの子を預けている。何しろメフィストは、ただの犬ではないのだから、アガルタとは無関係のペットホテルなどには預けられない。

 ネミは意外と愛想が良く、人懐っこい女の子だった。一見、クールビューティーに見えるが、意外とおちゃめな面がある。彼女は映画のギャグ展開があるたびに、ゲラゲラ笑い転げている。 

 私たちが観ているのは『Babelcity Explode』というタイトルのアニメ映画だ。この映画は、ある植民惑星が舞台のアクションもので、賞金稼ぎのヒロインが縦横無尽に大暴れする内容だ。

「やだ~、このヒロイン、無茶苦茶過ぎる〜!」

 そのヒロインのライバルは、どことなくネミに似ているように思える。それも、今みたいに親しくなる前の彼女の印象に近い。


 私たちは、あるレストランへランチを食べに行った。 

「そのピアス、フォースタスからもらったの?」 「うん、誕生日プレゼントね」 

 私は星形のアクセサリーを集めている。主に自分で買ったものだが、誰かからのプレゼントだったものも少なくない。私が今耳につけているピアスは、フォースタスから今年の誕生日プレゼントとしてもらったものだ。 

 ベリンダにも彼氏がいるけど、ネミは無性愛者なので、恋人がいない。私がネミに対して同性としての対抗意識を抱く気がわかないのは、多分そのおかげだ。

 しかし、私はネミに対して不思議に思う。それは、彼女が無性愛者だという点ではない。もっと基本的な何かだ。彼女は本当に普通の人間なんだろうか? いや、ネミだけでない。あのロクシーだって、どことなく怪しい。ロクシーには根強い美容整形疑惑があるけど、もっと怪しい何かがありそうなのだ。

 私は今は、ベリンダやネミやルシールにフォースティンといった友達がいるけど、一番の親友であるゴールディは、アガルタにいる。彼女は士官学校の学生だけど、単なる軍人の卵ではなくバールだ。同じバールでも、私と比べて行動範囲が限られている。久しぶりに会いたくても、なかなか会えない。だけど、私は来週アガルタに検診に行くので、運が良ければ会えるかもしれない。 


 私が家に帰ると、すでにフォースタスとメフィストがいた。フォースタスは夕食の用意をしている。

 私は、ミヨンママたちと暮らしていた頃からある程度は料理が出来たし、アガルタのマツナガ博士からも料理の秘訣を教わったけど、フォースタスに色々とコツを教わったおかげで、以前より料理の腕が上達した。そのフォースタスが用意したのは、あんかけ焼きそばと海藻サラダだった。

 食事を終え、しばらく休んでから、私たちは一緒に風呂に入った。お互いの背中を流し、一緒に湯船に入る。 

「なあ、アスターティ」 

「何、フォースタス?」

「お前も俺もアガルタに検診に行くけど、ドクターへの手土産はどうする?」

 そう、フォースタスは私との関係ゆえに、アガルタに検診に行く必要があるのだ。この人は、マツナガ博士をユエ先生と同じくらいに尊敬している。 

「一応は、ドクターにもそれなりに行動に制限があるから、あの店でケーキを買ってきましょう」

 風呂から上がり、私たちはベッドに横たわっている。フォースタスの身体は温かい。甘く激しい楽しみの後、私たちは眠りについた。

【MONDO GROSSO - Life feat. bird】