甘い蜜の美神

「戦の女神が生娘 きむすめ だなんて大嘘だ」

 久秀は言う。多分、アガルタのフォースタス・マツナガ博士も同じ事を言うだろう。


 俺は今、『ファウストの聖杯』を書いている。右往左往しながら、俺は物語をつづる。引き受けてくれる出版社のアテもないまま、俺はコツコツと書いていく。まるで、テニスンのシャロットの女が機を織るように。

 この小説における久秀は言う。いわゆる「名将」とは、戦の女神と寝た男たちなのだ。男たちは、女神の満足の代償として、軍才を授けられる。だからこそ、バビロニアの太女神イシュタルは「血染めの衣に身を包んだ大淫婦」だったのだ。そして、北欧神話の戦乙女 ヴァルキリー たちもまた、武装した娼婦たちだった。 

 なるほど、元々庶民出身だった「国士無双」韓信もまた、戦の女神の「情夫」だったのだろう。戦の天才は、忘れた頃にやって来る。 

 おそらく、芸術の女神ミューズたちも同じように、自分が寵愛した男たちに霊感を与えるのだ。それも、いわゆる衆道にはないだろう魅力と魔力。中国春秋時代の魔性の美女夏姫 かき と交わるかのような、異性愛の「深淵」。今の俺とライラの関係のような、甘い地獄。

 しかし…俺にとってのライラは「ミューズ」なのだろうか? 

「甘い毒か…」 

 俺はあれ以来、彼女とベッドを共にしては、絵のモデルとして自らの裸体をさらす。ライラにとっては、俺が事を済ませてからの様子が「エロティック」らしい。

 ますます苦しい。俺はライラを騙している。ユエ先生と結託しながら、俺はライラを欺いている。俺はユエ先生が怖い。改めて、自分自身の愚かさを呪う。 


果心 かしん 。千年以上も生きている古狐なのに、お前はまるで子狐だな」

 久秀は、古くからの友人をからかう。この小説の彼は、仙人の果心居士 かしんこじ と一人の美女をめぐって奇妙な三角関係になる。

「お前は煮え切らない半熟卵だ。だが、美味だ」

 俺が今書いている小説に出てくる果心居士は、30歳前後の若さを保っている。果心は、前漢の高祖劉邦に仕えていた淮陰 わいいん の韓信の一人息子だったが、父親が謀反の疑いで殺されてから、父の愛妾と共に山に逃げ込んだ。成長した彼は、かつて父を陥れた説客蒯通 かい とう を見つけて脅し、押しかけ弟子となった。 

 そして、漢の皇族の一人を唆して謀反を起こさせたが、事破れて、彼は父韓信に裏切られた鍾離眜 しょうり ばつの息子に追い詰められ、淮水に浮かべた小舟で焼身自殺を図った。

 そんな彼は「炎の魔神」として蘇った。

 不老不死を得た果心は、唐の時代に日本に渡り、様々な英雄たちと出会った。そんな彼の一番の友こそが、俺が執筆中の小説『ファウストの聖杯』の主人公、松永久秀なのだ。

 そして、久秀のモデルがアガルタのフォースタス・マツナガ博士ならば、果心のモデルは俺自身だ。この小説の果心は、俺の人間的な弱さを投影しているキャラクターだ。

 果心は、この小説のもう一人の主人公だ。


「腹減ったな」

 俺はテーブルに置いてあるリンゴをつかみ、かぶりつく。かじった跡を見ると、芯の周りには蜜が入っている。

 リンゴの芯の周りに含まれる蜜。そんなリンゴを食べた時には、何となく得をしたような気分になる。 

〈ビッグ・アップル〉。 それは本来は地球のニューヨーク市の愛称だった。かつての「世界の首都」。それを再現させたかのような大都市こそが、アヴァロン連邦の首都アヴァロンシティだ。

 アヴァロンシティは、惑星アヴァロンの北半球にあるアヴァロン諸島で最大の島、アヴァロン島南部にある港湾都市だ。星型のアヴァロン島は、地球の北海道とほぼ同規模の面積であり、この島で人口も面積も最大なのがこの街だ。内陸部には政府の研究機関〈アガルタ〉のあるアガルタ特別区があり、さらに、その奥にはリゾート地キャムラン湖がある。

「ビッグ・アップルでビッグ・アップルを食べる」 

 俺にとってライラは禁断の果実だ。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは眠るランスロットを描いたが、ライラは夢の中でも俺を誘惑する。ランスロットも俺も、禁断の果実を食べた男だ。吐き出す事なんて出来ない。消化されて、自らの一部になる。そう、罪が自らと同化するのだ。

 ランスロットといえばグィネヴィア。しかし、ランスロットを愛する女は他にいる。そう、ゲーテのファウスト博士にとってのグレートヒェンのような女が。


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「この子がアスターティよ。よろしくね」

 母さんが抱きかかえているプラチナブロンドの髪の赤ん坊。その子をじっと見つめる小学校入学前の俺。そう、アスターティ・フォーチュンという名前の女の子との初めての出会いの場は、アガルタの保育施設だった。

 バール(baal)、すなわち人工子宮から産まれた人造人間。アスターティは、人ならぬものから産まれた赤ん坊だった。俺は罪なき赤ん坊を見て不思議な気分だった。

「フォースタス、この子があなたの将来のパートナーよ」

 美しい女神の名を持つ、愛らしい女の赤ん坊。幼い俺は、きれいな顔立ちの赤ん坊の手を握る。手を開き、人差し指を赤ん坊の手のひらに差し出す。小さな手は俺の指を握る。まぶたが開き、透き通るような空色の眼が俺を見つめる。アスターティは笑う。赤ん坊らしい「かわいい」笑顔。

 無垢なる顔。何の罪も罰もない存在。

 将来のパートナー。そう、アスターティと俺は「婚約者」同士になった。当時の俺は、それがどういう事かを理解出来なかった。


「どうだ、坊主 ラッド 。うまく出来るか?」

 マツナガ博士が言う。12歳の俺は、アガルタの厨房で博士に料理のイロハを叩き込まれていた。

 まずは、中華スープの素で味付けした溶き卵を炒めて、スクランブルエッグにする。フライパンから卵を取り出し、適当な大きさに切ったトマトを炒める。ある程度炒めたら、先ほどのスクランブルエッグを加えてさらに炒め、塩コショウで味を整えて、完成。西紅柿炒鶏蛋 シーホンシーチャオジーダン だ。

「いただきます」

 マツナガ博士は微笑む。どうやら合格らしい。アスターティもおいしそうに食べている。

「フォースタス、ありがとう」 

 まだ幼いアスターティの笑顔。当時は、俺もまだ無垢だった。

 西紅柿炒鶏蛋 たまトマ炒め。今の俺の定番メニュー。少なくとも、週に一回くらいは作って食べている。どんぶり飯に盛り、「たまトマ丼」にする。いまだに飽きない。このトマト入りのスクランブルエッグは、たまにギリシャ料理のストラパッツァーダとして作るが、その場合は、缶入りカットトマトをオリーブオイルで炒めてから、フライパンに卵を割って入れて、さらに炒める。これはコンソメや塩コショウで味付けしてから、仕上げにバジルかオレガノを振りかける。

 中華たまトマ炒めも、ストラパッツァーダも、丼飯に盛って、混ぜて食べる。安上がりで栄養価が高く、コストパフォーマンス抜群。


「あ~ぁ、ますます厄介な事態になっちまったな」 

 俺は、ユエ先生と取り引きした。ライラの絵が完成するまでは、先生は俺とライラの関係を黙認する。その代わり、絵が完成してからは、先生はライラに離婚の申し出をする。

 そして、先生はライラへの慰謝料と引き換えに、ライラが描いた俺の裸体画を所有する。

 なるほど、道理で一部のメディアで、俺と先生の同性愛不倫疑惑なんてガセネタが出回る訳だ。かつての先生は、ゴシップから身を守るために芸能界を引退して、普通の男の子に戻ったけど、大人になってからゴシップに悩まされるのは皮肉な事態だ。

 そして、ついに俺も三文ゴシップレストランのテーブルに並べられる料理になってしまった。まさしく「いいカモ」。出来立てホヤホヤの鴨鍋は、怪しい湯気や匂いを放ち、社会問題に対する興味などろくにないミーハーなノンポリ連中の食指を動かす。

 時々記者たちが取材に来るが、俺はことごとく拒否している。今日も何者かが自宅に張り付いていたが、俺はきっぱりと無視している。このような状況は地球の昔からあった事だ。「調理」される有名人たちの中には、自ら積極的に「食材」を提供する者たちも少なくない。ロクシー…ロクサーヌ・ゴールド・ダイアモンドがいい例だ。


 俺は今日も、タブレット端末を手にする。まだ未完成の物語が、果心と緋奈と久秀が俺を待っている。


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 湯殿から出た果心は、久秀の寝所に呼ばれて驚いた。

 部屋中に、山百合の花が飾られているのだ。甘く強い芳香が充満する。

「よくぞ無事に戻ってきてくれたな、果心」

「久秀…?」 

「意外と元気そうじゃないか? 安心したぞ」

 先に沐浴していたらしい久秀は、何事もなかったかのように、何食わぬ顔で友を迎えた。ゆったりとあぐらをかいてくつろぐ彼の隣では、緋奈が黙ってうつむいて座っている。

《緋奈、俺を見損なっているのだろう》

 緋奈は、緋色の薄い小袖を一枚まとっているだけだった。薄暗い部屋の中にある灯火が、彼女の白い柔肌を透かす。

 どうやら彼女は、久秀と一緒に湯殿にいたようだが、頬を赤く染めているのは、そのせいばかりではないだろう。

 果心は、部屋の奥に敷かれている床が気になって仕方がなかった。そんな彼を面白がるかのように、久秀は言う。妖しい微笑み。実年齢よりもはるかに若々しい、肌の張りと艶。 

「極上の酒と肴を用意している。今夜は、共に楽しもうぞ」


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 何てこった。これでは久秀よりもむしろ、果心が主役ではないか?  まあ、確かに果心は準主役だけど、これでは読者は、本来の主役である久秀に感情移入しづらいだろう。やはり、俺にとっては荷が重い題材か?  それに、この話の果心は、あまりにも今の俺の立場と重なり過ぎてシャレにならない。まあ、これはあくまでもフィクションであって、私小説ではないのだ。だが、今のマスコミの連中は、こんな果心と俺を同一視してしまうだろう。

「情けない男」

 我ながらそう思う。

 明日はまた、俺はますます情けない男になっていく。身も心も、あの「運命の女神」に捧げに行くのだ。

「たまにはカラオケで思いっ切り歌って、スッキリしたいな」 

 俺はしばらくは、友人・知人と一緒にカラオケ屋に行っていない。それぞれ忙しいから。ましてや、ランスは法科大学院生として多忙なのだ。俺はハイスクール時代、あるヴォイストレーナーからの指導を少しばかり受けた事がある。バンド活動に対する関心もあったからだが、結局は演劇部を選んだ。

 ギターケースは、部屋の片隅でホコリをかぶっている。もう何年も弾いていない。  ギターか…。俺は新しいアイディアをひらめいた。俺は再びタブレット端末に向かい、アイディアをメモしていった。

【椎名林檎 - 本能】