その思いを文字に託して ―伊藤悠『シュトヘル』―

 まずは、冲方丁氏の『マルドゥック・スクランブル』について語る。この小説は、ヒロインのルーン・バロットとパートナーのウフコック、そしてウフコックの元パートナー(であり、決裂した元親友でもある)ボイルドの関係性が中心になっている。 

 さらに、アメリカの超絶技巧プログレッシヴ・メタルバンド、ドリーム・シアターのコンセプトアルバム『メトロポリスPart.2』について語る。このアルバムの内容は、ある現代人男性が催眠療法士のもとを訪れ、自分の恐るべき前世を知るという話だが、その前世とは、ある兄弟に愛されて悲劇を起こした女性だった。


 私は伊藤悠氏の漫画『シュトヘル』(小学館)の主人公たちの関係性から、前述の2作品の設定を連想した。 

 現代の日本に生きている男子高校生スドー(須藤)は、たびたび見る夢に悩まされていた。そして、転校生の少女スズキとの出会いによって、スドーの意識は別の誰かの肉体に宿ってしまう。

 13世紀初頭、中国大陸北西部にある西夏国に、一人の女戦士がいた。彼女の本名はスドーやスズキのフルネームと同じく分からないが、「悪霊」を意味する「シュトヘル」という通称で呼ばれていた。女性である彼女がなぜ西夏の兵士になったのかは分からない(ディズニー映画のモデルになった花木蘭のような事情があったのだろうか?)。彼女はモンゴル軍に捕まり、絞首刑にされたが、この仮死状態の肉体にスドーの意識が宿った。 

 そこに、ツォグ族の族長の息子ユルールがシュトヘルを救出しに来た。シュトヘルの「中身」スドーは、なぜか自分の意識が異性の身体に宿った事に対して違和感を覚えていないが、その辺を深く追及しないのは、多分『ファイブスター物語』のジョーカー太陽星団で地球と同じ度量衡を使っているのと似たような「合理化」だろう。ついでに追及するなら、『マルドゥック・スクランブル』のバロットが岡崎京子氏の『ヘルタースケルター』のヒロイン「りりこ」のような「元ブス」ではないのも、わざわざそのような設定にする必要はないからであり、また、物語の論点をずらさないためだろう。

 シュトヘルとスドーは、ユルールの異母兄ハラバルの母親の(そしてシュトヘル自身の)故郷である西夏の文字を守るためにモンゴル軍を敵に回すが、私は西夏文字の解読に成功した学者さんの一人が日本人だと知って驚いた。しかし、スドーは自分がどこから来たのか具体的には語ってはいないので、後の元寇に対する責任はない。


 もしもこの世に「言葉」がなかったら、我々人間の思考は他の生き物たちと変わらなかっただろう。人は言葉によって思考の質を高め、文明・文化を発達させた。そして、他者との関係性を発達させた。その言葉を表すのは声だけではない。声を録音する技術のない時代では、人々の言葉を残すには「文字」しかない。「文字」こそが人間の文明や文化の象徴であり、自分たちの思いを残すための大切なものなのだ。

 そう、私がこうしてこの記事を書いているように。 

 私は可能な限り、自らの思いを「言葉」として残していきたい。私は単なる生き物に過ぎないから、不老不死ではない。だからこそ、なおさら自ら生きた証を残したいのだ。人が歴史に名を残したがるのは、不老不死の代用なのだ。


 さて、前述のドリーム・シアターのコンセプトアルバムは歌詞カードを読むだけでは「救いがあったのかな?」と思えるが、実はとんでもない結末だった。私は『シュトヘル』最終巻を読むまではそのようなバッドエンドを危惧していたが、それは杞憂だった。色々な意味で感涙だ。

【Dream Theater - The Dance of Eternity】

 いわゆる「プログレッシヴ・メタル」のバンドのコンセプトアルバムの名盤として、クイーンズライクの『オペレーション・マインドクライム』があるけど、ドリーム・シアターのこのアルバムも名盤だと思う。