麗しき「偶像」たちの戦国カーニバル ―宮城谷昌光『孟嘗君』―

 〽王昭君かと思ってみて近づいてみたら、女装した孟嘗君でした〜♪ チクショー!! (©コウメ太夫)


 それはさておき。 


 ズバリ、言おう。私は「歴史小説を人生の教科書として読む」というのは邪道だと思う。だって、歴史小説って小説だよ? 色々とあるエンターテインメント小説の一ジャンルに過ぎないっしょ? 変なの。

 例えば、司馬遼太郎氏の小説のファンの方々がいい例だろう。ある作家の小説の中で、塩野七生氏のファンを批判する箇所があったが、おそらくは同時に司馬氏のファンをも批判するものだったのだろう。「司馬史観」なる概念が作られた時点で、ファンもアンチも変な勘違いをするようになったんでないかい? 

 そういう意味で、宮城谷昌光氏とは、良くも悪くも司馬遼太郎氏の後継者である。「その手」のファンは少なからずいるようだし。


 これまたヒンシュク発言をするが、私は宮城谷氏の作品群に対しては否定的、要するにアンチ寄りの人間である。理由はいくつかある。

 まずは、宮城谷氏が描く「理想的な」女性キャラクターたちは、現実の現代人女性に対する嫌悪感や不信感の裏返しのようで不愉快だ。我が最愛の漫画『ファイブスター物語』の女性キャラクターたちが「男にとって都合の良い女」とは対極にあるのとは対照的だ。FSSヒロインズが基本的に「彼女たち自身のために存在する女」なのに対して、宮城谷ヒロインズは男性ヒーローたちのためにのみ存在する女たちである。現実世界の女である私としては、実に不愉快である。何だか、FSSのエルメラ王妃や巴のファティマたちに対する憎しみに近い嫌悪感すらある。

 さらに、登場人物のえこひいきの激しさが大人げない。『楽毅』に出てくる燕の太子(後の恵王)の楽毅に対する悪感情を、あたかも「異常心理」の如く描くのは、あたしゃ納得出来ん。そもそも、楽毅のような優秀過ぎる人間というのは、世間一般の凡人たちの嫉妬心や劣等感をあおり立てるために存在するのも同然じゃないか? 私が宮城谷さんだったら、そんな「凡人たちの悪意」こそを作品のテーマにしたいね。宮城谷氏はあまりにも潔癖過ぎる。

 トドメの一発、宮城谷氏は明らかに自身の作品群を「人生の教科書」として読まれたがっているように思える。その作品世界の善悪観が、いかにも消毒薬臭い。


 さて、本題。私が初めて宮城谷氏の『重耳』や『孟嘗君』を読んだのは前世紀だったが、その頃は素直に感動出来た。しかし、後に『楽毅』や『青雲はるかに』を読んだ頃から異変があった。

 バーナード・コーンウェル氏のアーサー王三部作、そして、塚本靑史氏の『白起』を読んで衝撃を受けた。キレイ事だけではない。だけど、いや、だからこそ ・・・・・ 面白い。私は、宮城谷作品群の「健全さ」に対して嫌悪感を覚えるようになり、それらを退けた。あたかも、燕の恵王が楽毅を憎んだかの如く。

 しかし、私は『孟嘗君』を再読し、かつての感動を取り戻した。これは前述の欠点は確かにあるが、それらを度外視しても、純粋にエンターテインメント小説として面白い。ただ、全5巻のうち前半が孟嘗君田文の養父白圭が実質的な主人公であり、肝心の田文本人の影が薄い。それに、商鞅や孫臏などの有名人たちや多彩な食客たちが活躍するので、絢爛豪華な群像劇として楽しめる。


 さて、私は塚本靑史氏の名前を引き合いに出したが、この塚本氏のメジャーデビュー作『霍去病』は裏『孟嘗君』というべき作品である。この小説の実質的な主人公は、霍去病ではなく意外な人物だが、この人選は何だか漫画『キングダム』並びに『センゴク』シリーズを連想させる。いや、あの2シリーズ以上に意外な人選だろう。

【USA for Africa - We are the World】

 オールスター。