レディーファーストでもファーストレディーでもない女たち ―橘木俊詔『女女格差』―

 私は経済学者の橘木俊詔 たちばなき としあき氏の『女女格差』(東洋経済新報社)を、文芸評論家の斎藤美奈子氏の『モダンガール論』(文春文庫)の後に読了した。この本は、貧困層や低学歴・低職歴者などの「社会学的弱者女性」についてきちんと取り上げられているが、残念ながら知的障害者などの「生物学的弱者女性」についてはほとんど取り上げられていない。わずかに「不美人」の女性についての言及があるだけであり、個人の能力格差についての言及も基本的に「健常者」同士の能力格差を念頭に置いている。

 さらに、この本はあくまでも「シスジェンダーで異性愛者の健常者女性」を基準にした論考である。「美人と不美人」の項目があるなら、「健常者と障害者」や「シスジェンダー異性愛女性と性的マイノリティー(トランスジェンダー当事者も含む)」、「いじめ・虐待・性被害などの犯罪被害の有無」、「民族的マジョリティー(大和民族系日本人)と民族的マイノリティー(在日コリアンなどの外国人や非大和民族系日本人)」などについても取り上げてほしかったが、それに対しての論考ならばむしろ、続編・姉妹編として(あるいは別の著者の手により)書籍化すべきだろう。さらには、いわゆる「ヤンキー」すなわち「不良少女」経験の有無に対しても言及すべきだったし、「オタク」などの他の「属性」に対しても注意を払う必要があった。

 ただし、橘木氏はあくまでも経済学者であり、この本の主旨はあくまでも経済学を基本にして成り立った内容の本である。「オタク」や「ヤンキー」などの「属性」についての言及や論考とはむしろ、社会学者や心理学者の役目だろう。しかし、橘木氏自身は経済学者であるが、この本のテーマはむしろ、社会学に属する内容である。それは斎藤美奈子氏の『モダンガール論』にも言える。


 男性知識人である橘木氏は、下手なフェミニズム系女性知識人よりもよほど率直に女性同士の様々な「格差」の存在を認めている。前述の斎藤美奈子氏のように「女女格差」の存在自体を率直に認めているフェミニズム系学者は、果たしてどれほどいるのだろうか? 少なくとも、フェミニズムを商売道具にしている「強者女性」たちは、山本譲司氏の著書『累犯障害者』(新潮文庫)で取り上げられているような知的障害者の「弱者女性」たちを基本的に「商売の相手」だとは見なさない。

 しかし、一部の「弱者女性」たちは「フェミニズム」という思想に対して幻想を抱き、その思想と自分自身の資質や立場との隔たりを実感し、失望する。そうして出来上がった「ツイフェミ」などの「自称フェミニスト」たちは男性蔑視に走り、トランスジェンダー当事者などの性的マイノリティー(特にトランス女性)に対する差別に走り、最終的には石原慎太郎氏の女性版のような「差別の総合商社」と化してしまう。要するに、悪い意味で「女体化弱者男性」である。

 いわゆるマスキュリズムは「弱者男性」の存在を認識するが、それに対してフェミニズム(もしくはフェミニスト)の多くはむしろ、半ば意図的に「弱者女性」の存在自体を無視している。なぜなら、フェミニズムという思想並びに学問とは基本的に、高学歴・高職歴・高収入・高能力で恋愛などの人間関係に不自由しない「強者女性」を主体にした価値観だからである。あるフェミニズム系女性知識人は一般人の「弱者女性」に対して「フェミニズムは宗教じゃないんだよ!」と切り捨てたが、現在の日本社会においては「弱者女性」のセーフティーネットとしての「男性」「異性愛」「結婚制度」は当てにならないものとなっている。


 結婚相談所では無職の女性の入会が認められる場合があるそうだが、無職の男性はだいたい入会を認められないらしい。これは一種の男性差別である。これに対して「無職の女性の入会も制限した方が良い」という意見があるのは当然だ。私はあるYouTube動画のコメント欄で、ある50代男性が結婚相談所に入会して「20代女性と結婚したい」と希望を述べたら、相談所側から「20代の障害者女性」ばかりを紹介されたという話を読んだ。要するに、この結婚相談所は姥捨て山ならぬ「娘捨て山」として扱われたのだ。

 さらに、私が昔近所のブックオフで購入した某レズビアン雑誌の文通コーナーでは、無職の女性は避けられていた。おそらくは、ゲイの男性にとっても無職の男性は付き合いたくない相手だろう。仮に将来同性婚が合法化されても、「弱者男性」並びに「弱者女性」にとっては、異性婚も同性婚も高嶺の花でしかないのだ。レディーファーストでもなければファーストレディーでもない、それが「弱者女性」である。

【奏音69 - ファーストレディー】