都市という名の主人公 ―荒俣宏『帝都物語』―

 我が心の師匠である永野護氏は、言わずと知れた『ファイブスター物語』(以下、FSS)の作者である。この漫画は、単なるロボットSF漫画ではない。歴史や衣食住や音楽などにまつわる様々な文化や「教養」を丁寧に描写している。FSSという作品に描かれる世界観とは、単なるオタク文化の枠組みには収まらない「豊かな」ものである。まさしく「贅沢は素敵だ」である。

 永野氏はどこかで「自分のFSSのような作品は、自分より若い世代には作れないだろう」とコメントしていたらしい。それは単なる世代の違いの問題ではない。まずは、どのような環境で生まれ育つかが問題だ。どれほど「文化資本」に恵まれた環境で育ち、どれほど知識や教養を身に着けられるかで、クリエイターの才能や作品の完成度の高さは左右(いや、むしろ「上下」か?)されるだろう。

 例えば、ジャンプ系漫画だと、秋本治氏の『こち亀』こと『こちら葛飾区亀有公園前派出所』は、連載当時の日本社会の様々な流行を取り上げており、これから「歴史的資料」としての価値が高まっていくだろう。こち亀は単なるギャグ漫画ではなく「教養漫画」という一面がある。こち亀もFSSも、それぞれの作者の教養レベルの高さによって、文化的に充実した内容になっているのだ。

 

 そんな作者の教養レベルの高さによって剛腕が振るわれる小説として、荒俣宏氏の『帝都物語』(角川文庫)がある。これは、様々なフィクションに影響を与えた、盛り盛り「具沢山」のダークファンタジー小説だ。「マー君」こと田中将大氏や「しょこたん」こと中川翔子氏が『ウマ娘』で大枚をはたくならば、荒俣氏は自らの博学ぶりを「大枚」とする。

 すなわち、『帝都物語』とは「生きた百科事典」としての荒俣氏の「分身」というべき存在であり、読者は「博物学小説」としての『帝都物語』を楽しむ事になる。それと同じ事は、こち亀やFSSにも当てはまる。作者の文化資本を反映する「具沢山」な内容こそが、これら作品の魅力である。

 

 この小説は、今となっては架空の「過去」の物語として完結する物語である。要するに、『エヴァンゲリオン』が現実世界での年月の流れを経て、結果論的に「仮想歴史SF」にジャンルが変わってしまったのと同じ事態である。そして、この小説における二人の最重要人物の正体並びに関係性からして、この物語自体が壮大な「自作自演」だったという事になる。

 アメリカの作家バーバラ・ウォーカー氏の『神話・伝承事典』(大修館書店)では、女神アスタルテが「創造し、維持し、破壊する女神」とされているが、『帝都物語』の「彼(ら)」はまさしく「創造し、維持し、破壊する『男神』」である。そして、その「男神」をそのまま都市とした「東京」こそが、この物語の真の主役だろう。

 すなわち、冲方丁氏の『マルドゥック』シリーズ(まさしく「創造し、維持し、破壊する『男神』」に由来する作品集)につながるものであり、同時に我が『Avaloncity Stories』にもつながるものだ。私にとって『帝都物語』は、FSSに次ぐ「聖典」である(まあ、永野氏はログナーを通じて「自分だけを追え」とおっしゃるが)。この2作がなければ、私は自ら物語を作る気にはなれなかっただろう。やはり、面白い物語を作る(アウトプットをする)ためには、それ相応の知識や教養を蓄える(インプットをする)必要があるのだ。私はこの小説を再読して本当に良かった。

【椎名林檎 - 鶏と蛇と豚】

 私が『帝都物語』を再読するきっかけとなったビデオクリップ。まさしく、ディストピアとしての「東京」を感じさせる楽曲と映像美だ。

 椎名林檎氏は、ソロ活動でも東京事変でも「東京」という街そのものをテーマにしている。この人の一連の音楽活動こそが、もう一つの『帝都物語』そのものかもしれない。