目を大きく閉じて ―from『ウマ娘 プリティーダービー』―9.オルフェ、目を大きく閉じて

《オルフェ、目を大きく閉じて》


 久しぶりにそのささやきを聞く。それは、私の人間名と同じ名を持つ夢の女の声のようでもあり、サッチ…司馬佐智子の声のようでもあった。

 私はトレセン学園時代の「臣下」たちとは一切関係を断ち切った。〈チーム・アヴァロン〉の他のメンバーたちとも何の連絡も取っていないし、トレセン学園時代の交友関係はきっぱり清算した。当時の私たちの担当トレーナーには毎年年賀状を送っているが、卒業以来、一切会っていない。

 そういえば、私は子供の頃から友達が少なかった。我が姉ドリームジャーニーは見かけの印象とは裏腹に社交的だが、私は人間関係自体が不得意だった。そして、今の姉には婚約者がいる。

 だけど、今の私にはサッチがいる。


 私たちはあの温泉街を目指して、電車に乗っている。

「オルもお姉さんも、あえてドリームトロフィーリーグには行かなかったんだね。せっかく活躍出来ただろうに」

「私はレースウマ娘として、やりたい事はトゥインクルシリーズでやり尽くした。だから、後は一般人として生きていきたいんだ。ただの女に戻りたいと思ったのだよ」

「もし私があなたのようなウマ娘だったら、凱旋門賞を目指したかったけど、あなたの足元にも及ばないだろうね」

 かつての「金色の暴君」オルフェーヴルは過去のウマ娘。今ここにいる私は、ただの民間人明智紫苑だ。後はただ平穏無事に生きていきたい。そう、目の前の友と共に。

 だけど、姉にもサッチにも彼氏はいる。ましてや、姉は彼氏と婚約中だ。それに対して、私には今まで恋人と呼べる存在はいなかった。私は自分を無性愛者だと思っていたけど、それは生身の相手に対して情熱を感じなかったからだ。

 あの夢の中の女、私の人間名と同じ名前の女、明智紫苑以外は。

 サッチこと司馬佐智子は、私の恋愛感情の対象ではない。ましてや、情欲の対象でもない。家族に近い存在だと、私は思っている。そして、今の私の尻尾には、サッチの手作りアクセサリーを飾っている。私の眼の色に合わせてくれた、かわいいラベンダー色のリボンをあしらったものだ。


《オルフェ、目を大きく開けて、そして閉じて》


 温泉街に着いた私たちは、旅館の客室に荷物を置き、旅館の外に出る。夢の中であの「彼女」とここに来て以来だ。もちろん、現実世界では初めて来たところだが。それはさておき、私たちの他にも 一般女性 ヒトミミ とウマ娘のコンビの観光客が何組かいる。そのような交友関係は、戦前の日本では稀だったらしい。

 私は、母方の曾祖母とそのヒトミミの友人の話を思い出した。

 私の母方の曾祖母は、あの平塚らいてうや与謝野晶子と同じ時代に生きていたフェミニストだったが、一般女性フェミニストの友人の夫を寝取り、自らの家庭を築いた。その娘、そして、そのまた娘たちも、ヒトミミから男を奪って娘たちを産んだ。そんな曾祖母の恋敵は、割腹自殺を図って死んだらしい。姉と私は、呪われた血統の女たちなのだ。

 私は実家の母のアトリエで、若い頃の母のアルバムを見つけた。その中に、一度破り捨てたのをテープで貼り直した写真があった。その写真に写っていた一人の一般女性は母より数歳年上の若き担当トレーナーだったが、母は彼女の恋人だった男を寝取り、結婚した。そう、その馴れ初めによって結ばれた夫婦から生まれたのが私たち姉妹だった。

 そうだ。私は以前、トレセン学園の図書室でたまたま手にした本を通じて彼女の存在を知った。私はインターネットで彼女について検索したが、彼女は私の曾祖母の恋敵と同じく、割腹自殺で亡くなっていた。ならば、私は「彼女たち」の怨霊に祟られているのだろうか?


「先輩…」

「オルちゃん、ありがとう」

 私が今もなお尊敬している先輩ウマ娘は、ある財閥の当主と政略結婚した。しかし、その結婚生活はお世辞にも幸せとは言いがたく、事実上の一妻多夫を強いられて何人もの男たちの子を産むという多産DVの被害に遭っていた。そういえば、あのジェンティルドンナの姉と弟も、ジェンティルとはそれぞれ父親が違うという噂がある。いわゆる「上級国民」のウマ娘たちは、よしながふみの漫画『大奥』の女将軍たちと同じく、事実上の一妻多夫制を認められている…あるいは、強制されている。

 先輩は色々な意味で搾取されて、やせ細っていた。

 かつての美貌の面影はあっても、先輩は実年齢よりもはるかに老けて見えた。我々ウマ娘たちは、 一般女性 ヒトミミ よりも外見に恵まれている者たちが多いが、それゆえに、 普通の女 ヒトミミ たちに妬まれ、憎まれている。そう、文明開化以降の日本に西洋生まれの思想であるフェミニズムが上陸するまでは、ヒトミミとウマ娘たちは呉越の戦いのような不倶戴天の敵同士だった。

 私が尊敬する先輩は、自らが望まずして、少なからぬヒトミミたちを敵に回し、非難された。先輩の「夫たち」の中には、何人かの既婚者たちもいたのだ。

「オルちゃん。あなたのお父様からいただいたこの耳飾り、私の形見としてもらってほしいの」

 先輩は、金細工師である私の父が製作した耳飾りを私に渡そうと…返そうとした。シンプルな金の勾玉が一対。それは「魂」の形だ。この人には私の父の子までも産んだという噂がある。それは嘘であってほしい。

「先輩、私はそれはいただけません」

「いいえ、私はこれを返さなくてはならないの。私にはこれを持つ資格はない」


 ああ、何て事だ。縁起でもない! 数年前の出産で亡くなった先輩をこんなところで思い出すなんて。


「あれ? あの人、三冠ウマ娘のオルフェーヴルじゃないの?」

「あの栗毛、間違いない」

「でも、あの人、何でドリームトロフィーリーグに行かなかったんだろう?」

「弁護士を目指しているらしいな」

「サイン書いてもらう?」

「いや、あの金色の暴君だよ。近づかない方が良い」

「下手すりゃ蹴られるぜ」


 他の観光客たちの噂話が聞こえる。あくまでもささやき声だが、ウマ娘の聴覚でははっきりと聞き取れる。「金色の暴君」の伝説は、良くも悪くも健在だった。


 私の母はイラストレーターである。彼女は若い頃、元親友の女をモデルにした絵を描いていた。ただし、それは仕事として描いたものではない。赤と黒を基調とした凄絶な絵であり、普段の母の作風ではない。何かの犠牲者である女を描いた絵。私たちの母はその女に対して、優越感と贖罪が入り混じった複雑な感情を抱いていたのだ。自らの 内臓 はらわた をぶちまけ、絶叫する狂女。

 そう、この絵に描かれている女は、私の夢の中にいたあの女、ヒトミミの明智紫苑を「狂女」として描いたように見えた。そのヒトミミの明智紫苑そっくりな女が、私の向かいに座って蕎麦を食べている。

「オル、その耳飾りかわいいね」

「これ、私が尊敬していた人の形見なの」

 両耳に金の勾玉、さらに右耳に複雑な構造の耳飾り。これらは私の父が製作したしたものだった。


 私たちは旅館に戻り、夕食と大衆演劇を楽しみ、大浴場に入った。髪色・髪型や眼の色、耳の形や位置、そして尻尾の有無以外はよく似た私たち。ある意味、我が姉ドリームジャーニー以上に近しい者同士だ。

 私たちは顔と頭と身体を洗い、湯船に浸かる。まろやかな感触のお湯が心地良い。

 私たちは客室に戻り、テレビで地元の放送局の番組を観ている。他の地方への旅行の醍醐味の一つに、ローカル番組がある。私はサッチからこのような話を聞いた。

 北海道のテレビ業界に、貴重な洋楽情報番組があった。現在の日本では洋楽は1980年代ほどには人気がないが、数年前の北海道ではある洋楽情報番組をテレビで放送していた。しかし、番組のパーソナリティーだった男は性的なスキャンダルを起こして問題になり、番組を降板するどころか、番組自体が打ち切られたという。

【Dalbello - All That I Want】