目を大きく閉じて ―from『ウマ娘 プリティーダービー』―7.Gold Mirage

《目を大きく閉じて、そして、開いて、閉じて》

 また、謎の呼びかけが聞こえる。私自身の別人格なのか? それとも、別の誰かなのか?

 私はかつての自室にいる。かつてはドリームジャーニーと呼ばれていた私の姉フアカイモエウハネは、私のドッペルゲンガーであるアウリファーベルと同室だが、姉はアウリにカモミールティーを淹れている。この二人はピエール・エルメの〈イスパハン〉をお茶請けとして食べている。私は誰にも認識されない亡霊だ。

 私はかつての自室を出て行き、カシンとヒナの部屋に入る。BGMは、BONNIE PINKの『A Perfect Sky』、ある作家の小説の映画化の主題歌だ。この二人は元々男とヒトミミだったが、この物語でのカメオ出演によってウマ娘になった。カシンは花村萬月の『弾正星』を読み、ヒナは今村翔吾の『じんかん』を読んでいる。どちらも松永久秀が主人公の小説だ。

 ゴールドシップの部屋。あいつの相方は海外遠征している。私は他のウマ娘たちの部屋も覗いたが、彼女たちにとっては「オルフェーヴル」という名のウマ娘は最初から存在していないようだった。ましてや、かつての私の自称「臣下」たちは誰にもかしずく存在ではない。それゆえに、あの「騎士」デュランダルはより一層奇人変人めいていた。テイエムオペラオーに至っては、あくまでも単なるエンターテイナーである。


 そして、あいつ。我がメフィストフェレス、明智紫苑がいるトレーナー寮に行く。日曜の午前中、あの女はまだ気持ち良く眠っているのだろうか?


《アウリ、目を大きく開けて》


 私は紫苑の部屋に入る。ベッドに横たわる紫苑。幸せそうな寝顔。お前は…あなたは、私の事など忘れてしまったのだな? 我がメフィストフェレス、いや、グレートヒェン。いや、トロイのヘレナ。「金色の暴君」だった私の「国」を傾けた美女。我が愛しの 宿命の女 ファム・ファタール 。この王の 接吻 くちづけ を受けよ、眠れる森の美女よ。

「今度こそ私を殺しに来てくれたのだね、 オルフェ ・・・・ ?」

 紫苑は温かな微笑みを見せる。私を色々な意味で認めてくれた。

「紫苑!」

 私は紫苑を抱きしめようとした。しかし、彼女の身体は私の両腕をすり抜けた。

 「でも、もう良いの。私、希死念慮なんてドブに蹴り捨ててきたから。さようなら」

 紫苑は外出着に着替え、荷物を持ち、部屋を出て行った。行くな!


《オルフェ、目を大きく閉じて》


 トレセン学園のはるか上空にある恒星間宇宙船〈アヴァロン〉号。そうだ。果心と緋奈はあの船に乗っている。フォースタス・チャオとアスターティ・フォーチュンの魂を手にした「あの男」と共に。我が娘〈コヨルシャウキ〉はあの男の伴侶として、新天地を目指すのだ。


 第三次世界大戦によって、地球の人口は20億人以下になった。しかし、それでも人類は外宇宙を目指していた。

 本来の私の肉体はすでに塵となった。三冠馬オルフェーヴルも、三冠ウマ娘オルフェーヴルも、歴史の彼方へと消え去った。今の私は、何者でもない何者かだ。

 私は廃墟と化した府中市内を彷徨う。かつてのトレセン学園の跡地には、外宇宙進出のための〈ノアの方舟〉を建設する機関の一部が建てられていた。

「オルフェーヴル」

 見知らぬ男が私を呼ぶ。

「あなたは、誰だ?」

「わしは因心居士。果心居士こと淮陰の韓毅の息子だ」

「淮陰の…? 漢の三傑の韓信の身内か?」

「韓信はわしの祖父だ。そして、我が父果心は我が 義母 はは 緋奈と共に〈アヴァロン〉号に乗っている」

「恒星間宇宙船〈アヴァロン〉号、超巨大移動スペースコロニーか」

「今は第二弾〈ディルムン〉号を月面基地で建造中だ。そなたも地球を出るか? 伍子胥殿や孫武殿はあえて地球に残るが」

「私が愛した者たちはもう、どこにもいない。地球を出ようが出まいが、大差あるまい」

「そうだな。そなたもわしも、それぞれの物語のために生み出された者たちだ。そうだ、そなたにこの本をやろう」

 私は身構えた。以前、紫苑が私にくれた桐野夏生の小説『グロテスク』が、私と紫苑の運命を狂わせたのだから。

「山田正紀の『エイダ』…? エイダって、詩人のジョージ・ゴードン・バイロンの娘エイダ・ラブレスじゃないか。私の紫苑はエイダと同じ誕生日だった」


 こうして、我々は「彼女」の物語に組み込まれた。


 夜。我が姉ドリームジャーニーは相変わらず、寝相が良く安らかな寝顔だ。私はまた、訳が分からない夢を見てしまった。私の枕元には山田正紀のSF小説『エイダ』があるが、これは夢と現実、現実とフィクションの違いの曖昧さを描く内容の話だ。そして、フランケンシュタインの怪物とは全ての「創作物」の 隠喩 メタファー なのだ。

 今の私が生きているこの現実世界は、実は他の誰かが作ったフィクションなのかもしれない。例えば、メフィストフェレスのような悪魔か、運命の三女神のような神々か。


《オルフェ、目を大きく閉じて》


 幻の女、明智紫苑。彼女は永遠に私から去って行った。

 私は学園の図書室で山田正紀の『エイダ』を返却した。そして、府中市内の本屋で、あの名前を目にした。

《明智紫苑『ファウストの聖杯』》

 某大学の法学部出身の女性小説家、明智紫苑。24歳。この小説は彼女のデビュー作だという。

 私は迷わず『ファウストの聖杯』並びに姉妹編『Fortune』を購入し、寮に持って帰った。姉は私にいつものカモミールティーを淹れてくれた。私は茶を飲みながら、『ファウストの聖杯』から読み始める。ああ、商鞅も、ランスロットも、松永久秀も、みんな「彼」に取り込まれたのだ。そして、他ならぬ私自身も。

 私が尊敬している先輩ウマ娘からもらった金の勾玉形の耳飾り。その製作者は、私の父の同門の職人だったそうだ。私は先輩とお揃いの耳飾りをもらって嬉しかった。私は特別な日に、両耳にそれをつけるのだ。そう、この片割れをあげる相手はもういない。あの人と同じ名前、同じ年齢の作家は、多分あの人とは別人だ。だって、いかにも「ペンネームらしい」名前じゃないか?  別の世界に生きているという、もう一人の…いや、もう一頭の「私」。美しいたてがみと尻尾をなびかせて走る、最も美しい生き物。そんな「彼」を見つめる「彼女」がいる。


《目を大きく開けて、そして閉じて》


 明日は、本についていたアンケート葉書をポストに投函する。もしかすると、作家の明智紫苑は私の「彼女」と同じ人物かもしれない。そんな一縷の望みを込めながら、私はアンケート葉書に必要事項を記し、机の上に置いている。

「お前は…アウリファーベル?」

 あの女、私のドッペルゲンガー、アウリファーベルがいた。

「オルフェ、あなたはあの人への執着を捨てられないんだね。かわいそうに」

「ふざけるな」

 アウリファーベルはせせら笑う。私と瓜二つの、鏡の女。

「メフィストフェレスを忘れられない、哀れなファウスト博士。それが金色の暴君の成れの果てだとはね。ずいぶんと落ちぶれた 偶像 アイドル だよ」

「私に向かって『目を大きく閉じて』などとささやいていたのは、貴様か? 紫苑よりもお前の方がよほど悪魔じゃないか」

 淡い金色に輝く幻影は、打ちひしがれた私を憐れむように見つめる。

「あなたは二人の偶像を追いかけていた。一人はあの『英雄』、そして、もう一人は明智紫苑という幻の女。どちらも物語に縫い込まれた偶像だけど、二兎を追う者は一兎をも得ずだよ」 

 アウリファーベルは私の顎を撫でる。私は冷気を感じる。肝が冷えるとは、この事か。

「おやすみ、暴君さん。せいぜい精一杯努力する事だね」

 鏡の女は姿を消した。

【Dalbello - Deep Dark Hole】