どういう事だろう? 野菜嫌いで悪名高いはずの先輩三冠ウマ娘ナリタブライアンや後輩スイープトウショウが、 完全菜食主義者 になっていた。ヒシアマゾンやヒシアケボノは料理が不得意になっており、代わりにサクラバクシンオーの料理の腕がプロの料理人並みになっている。今回の「夢」のテーマが分からない。
しかし、最大の問題は、私の存在自体が誰にも認識されないという事態だ。要するに、今の私は透明人間に等しい立場なのだ。さらに、姉は私の存在自体を忘れてしまったようだ。いや、別の誰かに私を「書き換えられた」のだ。
フアカイモエウハネ。その名はハワイ語で「夢の旅路」を意味する。私の姉は、その名をハワイ語に訳されていた。
「アウリ、部室に行こう」
「はい、お姉ちゃん」
アウリファーベル、ラテン語で「金細工師」。すなわち、私のドッペルゲンガー。「金色の暴君」オルフェーヴルは、「金色の聖王」アウリファーベルにその身柄を「簒奪」されていた。
アウリファーベルは私と全く瓜二つの栗毛のウマ娘だ。しかも、私の取り巻きだった自称「臣下」たち…いや、「元臣下」たちは、アウリファーベルと対等な交友関係を結んでいる。屈託ない笑顔の女と、その盟友たち。かつての友ウインバリアシオンも、この女と仲が良い。ああ、お前たちが本当に望んでいた関係性なのだな。そう、他ならぬ私自身もだ。
私は自らの忌まわしき分身アウリファーベルと共に、〈チーム・アヴァロン〉の部室に入る。我が明智紫苑も、他のメンバーたちも、「オルフェーヴル」という名のウマ娘を認識しない。私の肉体は質感を失い、空気と同化している。そう、 どうかしている 。
ヨモツヘグイ。あの焼肉パーティーこそが決定的だったのだ。私はこの世の存在ではなくなってしまったのだ。
「紫苑、お前はなぜここまで執拗に私を翻弄する? そんなに、私たちウマ娘が憎いのか? 応えてくれ!」
私の叫びはこの女には届かない。私は肉体を持たない魂だけの存在だ。少なくとも、無神論者や唯物論者には存在自体を認識されない「何か」だ。
紫苑はまだ実体があった頃の私に、次のような話を教えてくれた。
ある夫婦がいた。夫は愛人との関係が単なる浮気に留まらず、本気になった。それゆえに、妻は自殺し、怨霊となって問題の二人の目の間に現れた…つもりだった。
夫と後妻は、前妻の亡霊自体を認識しなかった。
実体がないのに、寒気がする。
紫苑。お前は田常か? それとも司馬昭か? あるいは陳勝やハンク・モーガンなのか?
アーサー王伝説の皮をかぶったファウスト伝説、それが私自身だ。テニスンのシャロットの女にとってのランスロット、それが私にとってのお前だ。私は横にひび割れた鏡、フランケンシュタインの爆破された木、フランケンシュタインの怪物だ。お前はヴィクター・フランケンシュタイン、身勝手な錬金術師だ。
ダムナティオ・メモリアエ。それが私の物語の作者が私自身に対して下した罰だ。
《オルフェ、目を大きく閉じて》
「子胥、目を大きく開けて」
孫武は伍子胥に言う。中国浙江省の某所にある探偵事務所に、その男たちはいた。
「デメルのスミレの砂糖漬け。少伯は気が利く男だよ」
二人の男たちはワイングラスにスミレの砂糖漬けを数粒入れ、白のスパークリングワインを注ぐ。天上の青を地上に溶かす。
「果心様、あなたに会いたい」
ヒナと瓜二つのヒトミミが、新宿二丁目のバーでモヒートを飲み干し、つぶやく。
「アスターティ、あなたの歌を聴かせて」
天才美少女ミュージシャンのファンが彼女に呼びかける。
「お父さん」
謎の生き物が 私 を呼ぶ。
「お前は、誰だ? お前は私を認識してくれるのか?」
愛らしい栗毛の生き物はうなづく。なぜこの美しい生き物は、私を「母」ではなく「父」と呼ぶのだろう?
「あなたは私のお父さんの分身なのね?」
「分身? 誰の分身なんだ? あのアウリファーベルとかいう女の事か?」
「オルフェーヴル。それがあなたの名前で、私のお父さんの名前でもあるの」
「お前の父親が私と同じ存在だとでもいうのか?」
「同じは違う、違うは同じ」
「マクベスの魔女みたいな物言いだな」
「蝶は荘周、荘周は蝶」
「胡蝶の夢? 私は『荘子』の胡蝶の夢なのか?」
私の母にはヒトミミの異母姉がいた。その私の伯母だった女は、妹の、つまりは私の母の後に結婚した。私の母は美しいウマ娘だが、伯母は貧相なヒトミミだった。物心がつく前の私は、伯母の結婚式の会場だったホテルの池で溺死しかけていたという。私は蘇生したが、伯母は殺人未遂で逮捕され、獄中自殺したという。
多分、本来の私はそこで死んだのだ。やはり、私たちウマ娘の足元には、無数のヒトミミたちの遺体が山積みにされているのだ。ヒトミミの世界においても、一握りの強者女性たちは無数の弱者女性たちを踏み台にして成り上がったのだ。あのジェンティルドンナはまさに、 新自由主義 的な「強者女性」そのものだ。それゆえに、彼女を憎む者は少なくない。
もちろん、あの先輩ウマ娘も、私自身もだ。
私は子供の頃、夢を見た。『荘子』の胡蝶の夢そっくりの内容だ。私はあらゆる者たちに見捨てられ、最愛の姉にまで見捨てられ、死んだ。私は自分自身の葬式を目にした。私の魂は祖父の家の隣にあった空き地の上を浮遊していた。明るく暖かい春の日、幼い私にとっては「孤独」とは恐ろしいものだった。
荘周は大人だったから、気楽に自らの孤独を楽しめたのだ。
あの空き地はもう、この世には存在しない。なぜなら、新たな隣人の家が建てられたからだ。その祖父の家も、今はもうない。
中国の戦国時代に春申君という男がいた。奴は楚の宰相だったが、この男には見た目は美しいが性悪な妾がいた。赤と紫の衣を身に着け、金の杯で美酒を飲むこの女は、『韓非子』によるとかなり汚い手口で春申君の妻妾たちを陥れ、他の女たちの子供を陥れ、春申君を自らの虜にした。
「贅沢な名だねぇ。今からおまえの名前は〈春申君の妾〉だ。いいかい、〈春申君の妾〉だよ。分かったら返事をするんだ、〈春申君の妾〉!」
春申君の妾、その名もズバリ〈余〉。シャロットの女ならぬ淮陰の男韓信に負けた男の名も〈余〉。私と紫苑の「刎頸の交わり」は幻に過ぎなかったのか?
我が夢の神は気まぐれだ。アイディアの種を撒き散らしては、さっさと駆け去って行く。私はそれを拾おうとするが、それをつかんだ途端、夢は霧散する。
赤と紫の衣を身に着けた私は、秦軍の楚国侵略から逃げていた。私は一人の 一般女性 の生首を抱えて疾走する。
「紫苑、お前の 首級 だけは奴らには渡さないぞ」
満身創痍の私は長江の岸辺にたち、最後の力を込めて、紫苑の首を放り投げる。私は力尽き、 斃 れる。あの蘇秦も言っていた。死者に知覚などない、と。
モノトーンの夢が、パステルカラーの夢が、極彩色の夢が、次々と細切れになり、私に襲いかかる。何隻もの〈ノアの方舟〉が次々と地球から飛び立つ夢。カシンに似た男とヒナに似たヒトミミが、一人の男の魂の昇華を見守る。新たな緑の星での独立戦争。男やヒトミミの姿を持ちつつも、我々ウマ娘並みの身体能力を持つ人造人間たちが迫害され、天然の人間たちの王が彼らを救う。
作られたヒトミミの末裔が歌う。セレストブルーの瞳とプラチナブロンドの髪の女は、緑の星の独立記念日のコンサートで自らの歌を歌う。
「武器ではなく花を」
アスターティ・フォーチュン。それがその女の名前だった。しかし、本来 私たち はそれぞれ違う世界の住人だ。現実世界ではまずは交わらない平行線。
私は、その女の歌声に涙する。
紫苑、それが お前の 物語なんだね?
【Dalbello - O Lil Boy】