目を大きく閉じて ―from『ウマ娘 プリティーダービー』―3.ヨモツヘグイ

 夢か現か分からない。私は明智紫苑が住むトレーナー寮の一室を訪れていた。

「紫苑。余は貴様の手料理を食べたい」

「今作れる料理は三つあるよ。親子丼か、豚肉のクリームシチューか、ビーフカレー」

「余は鶏肉のクリームシチューを食べたい」

「はいはい。なら、私用には豚丼を作るね」

「なぜ一緒じゃないのか?」

「君主は臣下に己の本心を知られてはならない。逆もまた然りだよ」 

 紫苑は私に手料理を振る舞う。鶏肉のクリームシチューと帯広豚丼が2人前ずつだ。なぜか私の脳内に「ヨモツヘグイ」という単語が思い浮かぶ。さらに、 孫臏 そん ぴん の宿敵 龐涓 ほう けん のように大量の矢を射られてハリネズミのようになる自分自身の幻までもだ。そんな不吉な妄想を脳内でかき消し、私はありがたく紫苑の料理をいただく。以前、この部屋を訪れた時と同様に、この女の手料理はうまい。

 しかし、部屋のCDプレイヤーから流れてくるのは、異様な歌声の女性歌手の曲だった。まるで、私が時々見る悪夢に出てくる狂女が実体化したかのようだ。

「この歌手は誰だ?」

「アメリカの歌手ディアマンダ・ギャラス。このアルバムでは、レッド・ツェッペリンのベーシストだったジョン・ポール・ジョーンズと共演しているの」

「そんなに大物なのか?」

「うん。ディアマンダはグランド・オペラの基礎をしっかりと学んでいるヴォイスパフォーマーなの。もちろん、前衛的ではない楽曲でも素晴らしい歌を聴かせてくれるよ」

「何? 『The Sporting Life』? このCDケースの解説や歌詞を読ませてくれ」

「どうぞ」

 ディアマンダ・ギャラスとジョン・ポール・ジョーンズの合作アルバム『The Sporting Life』は、ディアマンダの歌とピアノとオルガン、ジョン・ポールのベースとギター、そしてサポートミュージシャンのドラムスのみで制作されたものだ。しかし、全ての楽曲の歌詞が日本語訳されているのではない。

 ディアマンダ・ギャラスはギリシャ系アメリカ人であり、英語だけでなくギリシャ語の歌詞も歌っている。1曲目『Skótoseme』はギリシャ語のタイトルと歌詞のようだが、それは「Kill me」という意味だった。

「貴様は変わった趣味をしている。このような前衛的な曲を聴くなんて」

「広く浅く聴いているだけ。私は洋楽と邦楽の二元論が嫌いだから、いわゆるワールドミュージックも聴くの」

 紫苑は冷蔵庫から何かを取り出す。

「ピエール・エルメの〈イスパハン〉?」

「ちょうど二つあって良かったよ」

「うむ、ありがたくいただこう」

 薔薇とライチとフランボワーズのケーキ。自分と彼女と、ちょうど二人分あったが、もしかすると、私のために買ってきてくれたのだろうか? 

「貴様は…優しいな」

 私が彼女をほめた瞬間、空気が変わった気がした。一瞬、寒気がした。


 私は彼女へのお土産として、いくつかのマカロンを選んで買って持っていったが、彼女はお返しとして、気前良く〈イスパハン〉を食べさせてくれた。私はいつしか、紫苑への見方が軟化していた。姉の言う通り、私は根拠なき猜疑心に取り憑かれていただけなのだろう。そうこうしているうちに、私自身の彼女に対する言葉遣いが微妙に変わっていった。

「オルフェ、ドンナとの並走は良い勝負だったね」

「ああ、ジェンティルは相変わらず余裕綽々だ。ただ、生まれついての強者ゆえの『自然に傲慢な』性格が玉に瑕だな」

「そういうあなた自身は、無理して本来以上に傲慢な性格を演じていた」

「お前には感謝している。私がここまで強くなれたのは、お前のおかげだ」

「いや、チームみんなのおかげだよ」

 紫苑は、優しい。絶対に返したくなかった掌を返さざるを得ない。しかし、先ほど空気が一瞬冷たくなったのはなぜなのだろうか?

 ジェンティルドンナならば、紫苑の優秀さを認めるだろう。しかし、私は紫苑をジェンティルにもゴルシにも奪われたくない。私たちの紫苑こそが〈チーム・アヴァロン〉の要なのだから。


 私は学生寮に戻り、自室に戻る。

「オル、うまくいったね」

「ああ、私の誤解が解けた。姉上は人を見る目がある」

 久しぶりの晴れやかな気分。ストレス性の喉の違和感は、いつの間にか弱まっていた。今夜は多分、良い夢を見られるだろう。消灯時間になり、私は布団にくるまり、横になった。


「目を大きく閉じて」

 明智紫苑の柔らかな声で、また謎の言葉を聴く。何だろう? 何かを見て見ぬふりでもしろとでも言うのか?  鶴の恩返しか? それとも青髭の話か?


 私はある家を訪れていた。この家は姉からもらった情報によると紫苑の実家だったというが、応対したのは彼女と全く無関係の一家だった。その家の女主人は言う。

「私たちがここに来る前に、あるウマ娘さんがご主人と娘さんと暮らしていたらしいの。あなたのようなきれいな栗毛の美人だったらしいけど、ご主人から暴力を振るわれていたのね。他にも、いわゆるモラハラだったかしら? とにかく、ご主人とは仲が険悪で」

「娘さん…ですか? その娘さんはウマ娘ですよね?」

「いいえ、その女の子は普通の人間の女の子として生まれてきたの。顔立ちはそのお母さんそっくりだったというから、れっきとした実の 母娘 おやこ だったらしいわ」

「そうですか」

「かわいそうに、その娘さんはお母さんに色々と虐待されていて、児童相談所に通報されて逮捕されたらしいの。ご主人に対する殺人未遂まであって。娘さんは親戚たちの間をたらい回しにされて、最後は一番信用出来そうな家に引き取られて、養子になったらしいわ」


 クラリス・スターリングがハンニバル・レクターと食事を共にしたのは、いわば「ヨモツヘグイ」である。彼女は彼と共に、現世から消えた。


 私は府中市に戻り、寮に戻る前に商店街に立ち寄る。

 明智紫苑。毒親育ちの女、メフィストフェレス。彼女は本当に、我々ウマ娘たちを憎んでいるのかもしれない。しかし、なぜ彼女はウマ娘トレーナーになって、私たちのために尽力してくれるのだろうか?  あの女が狡猾な越王勾践ならば、私は愚かな呉王夫差なのだろうか? 少なくとも私は、 商鞅 しょう おう を粛清した秦の恵文王のように冷酷非情にはなりきれない。もし仮に恵文王が夫差の立場であれば、あらかじめ 伍子胥 ご ししょ を粛清した上で伍子胥の進言を採用し、国力を高めたのだろう。しかし、逆のパターンとして商鞅が夫差に仕えていれば、結局は伍子胥や史実の商鞅自身と変わりないだろう。

 私は〈チーム・カノープス〉の連中とすれ違ったが、あえて彼女たちに声をかけなかった。あいつらは私の「暴君」イメージを気味悪く思っているようだから、あえてあいつらの気分をさらに悪くする必要はない。

「あ…!」

 紫苑。

 彼女は八百屋で野菜を選んでいる。新鮮な葉付きの大根だ。状態の良い大根の葉は、味噌汁の具に良い。聞くところによると、葉っぱがメインの「葉大根」という本末転倒な品種まであるという。さらに紫苑は豆苗も買っていた。その基板をさらに水栽培してリサイクルするのだ。彼女は私たちのために自らのポケットマネーを使ってくれるが、その裏にはあのような倹約という影の努力があるのだ。

「あ、オルフェじゃないの?」

「紫苑!」

 私はあえて彼女を無視して寮に戻ろうとしたが、見つかって声をかけられたなら、仕方ない。

「紫苑、良い野菜を買えたのだな。荷物を片方持ってやる」

「あ、ありがとう」

 私は紫苑が住むトレーナー寮に行き、荷物を運んでいった。私が帰る際、彼女はある本をくれた。

「桐野夏生の小説『グロテスク』? 私はまだ読んだ事がない」

「それならちょうど良かった。あげるよ。あなたに合わない作風なら、古本屋に売っても良いし、誰かにあげても良いよ」

【Dalbello - Whore】