目を大きく閉じて ―from『ウマ娘 プリティーダービー』―2.鬼百合の球根

 客観的に見れば、明智紫苑という若き女性トレーナーは有能な人物だ。的確な理論による指導によって、私たちは徐々に力をつけていく。さらに、人心掌握に長けている。三国志で例えるなら、裏切り者の劉備が人たらしだったようなものだ。つかみどころがない、食えない女。

「貴様の辣腕ぶりには感心する」

「ありがとう」

 紫苑は人が良さそうな微笑みを浮かべる。この顔に騙される者たちは少なくない。少なくとも、燕の太子に嫌われた楽毅以上にしたたかなやり手だ。

「貴様は余の嫌味に対して軽くあしらう。少しは怒ったらどうだ?」

「怒り1回につき10万円。値引きはいたしません」

 道化師の微笑み。相変わらず人を喰った物言いだ。

「トレーナー、売店でみんなの分のメロンソフトを買ってきました」

「ありがとう。オルフェ、私たちも休憩しましょう」

 ヤムナハルは天然メロン果汁を使用したソフトクリームを人数分買ってきた。もちろん、紫苑のポケットマネーで購入してきたものだ。姉もカシンもヒナも、木陰に移動して休む。

 私は隣に座る紫苑の横顔を見る。実に涼しげな、整った横顔だ。その端正な顔立ちや体型には、飾り気のないショートボブの黒髪が似合っている。何を考えているかは分からないが、常に何かを考えている。私にとっては、それが不気味なのだ。

「ねぇ、オルフェ」

「何だ、紫苑?」

「1970年代と2020年代とでは、日本の平均気温が変わっている。同じ事は『常識』という概念にも言えるんだね」

「いきなり藪から棒に何だ?」

「金になる非常識は将来の常識になり得るけど、一銭の得にもならない常識は淘汰される。そうして、世の中は進歩していった。そのためにこそ、私たちは歴史を学ぶ必要があるんだよ」

「賢者は歴史に学び、愚者は自らの経験から学ぶ。貴様は『賢者』なのか?」

「自らの経験だって『歴史』でしょ?」

「たわけた詭弁だな」

「ありがとう、オルフェ」

「これは嫌味ですらない。ただの悪口だ」

「だから、ありがとう。賢者は歴史に学び、愚者は自らの経験から学ぶのだからね」

「ふん」

 私の姉ドリームジャーニーは、そんな私と紫苑のやり取りを微笑ましいものだと見なしている。実際には、食うか食われるかの呉越の戦いなのだが、姉はあくまでも、紫苑を誠実な善人だと見なしている。いや、冷徹で洞察力が高い姉の事だ。私以上に、この道化師ぶった女の正体を見抜いている可能性すらあるのだ。

 紫苑はトレセン学園内部での人望が厚い。秋川理事長ら幹部だけではない。生徒会長のシンボリルドルフも、彼女の人物像を高く評価している。それほどまでに、この女は政治力が高いのだ。あのジェンティルドンナが財界の頂点を目指すならば、この女はURAの役員の地位を踏み台にして政界進出を目指すのかもしれない。この女は確か、大学では法学部の学生だったのだ。そんな女がなぜ法曹界ではなく、このウマ娘レースの世界に来たのか? URAの利権が目当てか?


「鬼百合の球根は死んだ女を養分にする」

 夢の中。鬼百合が咲き乱れる闇の中。私の足元に横たわる紫苑の死体。それは四肢を切断され、両眼をくり抜かれ、舌も切り落とされている。全身血みどろの私と紫苑。この女の死体は全裸だが、赤と紫の衣に身を包んでいた私は涙を流す。

「忠臣の皮をかぶった逆賊め! なぜお前は私のものにならないのだ? ヒトミミたちとウマ娘たちが再び『男』を巡って殺し合う時代に戻れとでも言うのか!?」


 何て嫌な夢を見たのか。私は別にあの女なんかほしくない。私は男には興味はないが、同性愛の傾向もない。世間一般で言う性自認や性的指向を当てはめるなら、私はノンバイナリー寄りのシスジェンダー女性で無性愛者という事になるだろう。

 そういえば、あの女からは性的な匂いが感じられない。その容姿からすれば、過去に一人くらいは恋人がいたとしてもおかしくないが、恋愛は外見だけで成り立つものではない。第一、どこぞやの不美人のヒトミミ結婚詐欺師の事件があったのではないか?

 一見、自らの私生活を度外視してまでも私たち教え子たちの指導に尽くす明智紫苑。私の姉はあの女の「無私」や「純粋さ」をほめたたえるが、あれは越王勾践だ。目的のためなら、いくらでも恥辱を味わう姿勢を取る者だ。生半可な「善人」ごときには、あの女の真似は出来ない。


 私は自分の姉の心を奪ったあの女に嫉妬しているのだろう。だからこそ、私はあの女の存在自体に対して強い不快感を抱くのだ。あの楽毅の主君のバカ息子のように。

 紫苑は私に対しては皮肉屋だが、基本的に優しくしてくれる。しかし、あの女の優しさとは「ただより高いものはない」という言葉通りのものだ。なぜなら、あの女は私のメフィストフェレスなのだから。


「紫苑! アンタ、アタシと一緒にラーメン食いに行かねぇか?」

 よそのチームに所属するゴールドシップ、愛称ゴルシが来た。こいつは紫苑とウマが合うようで、時々〈チーム・アヴァロン〉の部室に来る。こいつの担当トレーナーはそんなゴルシの気ままさを黙認しているが、そのトレーナーも明智紫苑という女の政治力の虜になっていた。

「ゴルシ、あなたのチームのトレーナーは?」

「いや、アイツよりアンタと一緒に行く方が楽しいぜ」

「じゃあ、うちのメンバー全員と一緒に行く?」

「アイツらがOKなら良いよ」

「余は行かぬ」

「オルフェ?」

 私は部室を出て行き、真っ直ぐ寮に戻った。姉は私を追ってきた。

「オル、せっかくゴルシさんやトレーナーさんが誘ってくれるのだから、一緒に行けば良かったのに」

「姉上、余はラーメンは嫌いだ」

 私たちは自室に戻り、私はベッドに横たわり、毛布を頭からかぶった。姉に悔し涙を見られないように、私は黙って寝ていた。


 私はもう一人の「シオン」、すなわちウインバリアシオンと並走している。私はこちらのシオンとラーメンを食べに行った。私たちは寮に戻り、浴場に入る。髪と身体を洗い、湯船に浸かる。風呂から上がった私は自室に戻り、姉と他愛もない話をする。姉は相変わらず、あの女に心酔しているが、私にとってはあの女は疫病神だ。

「姉上ほどの人があの女を買いかぶるのは信じられない」

「オル、そんなにあの人が嫌い?」

「無論だ」

「やはり…母さんの親友だった人を思い出すから? ひいおばあちゃんのあの話も連想させるから?」

 イラストレーターである母は若い頃、元親友の女をモデルにした絵を描いていた。ただし、それは仕事として描いたものではない。赤と黒を基調とした凄絶な絵であり、普段の母の作風ではない。何かの犠牲者である女を描いた絵。私たちの母はその女に対して、優越感と贖罪が入り混じった複雑な感情を抱いていたのだ。自らの 内臓 はらわた をぶちまけ、絶叫する狂女。

 そう、この絵に描かれている女は、あの女、明智紫苑を「狂女」として描いたように見えた。

 私の悪夢にたびたび出てくる血まみれの狂女。私はその女と格闘しては組み伏せられ、首を絞められる。そのような夢をたびたび見るせいか、私はストレスによって喉に違和感を覚えるようになり、心療内科で処方された漢方薬を飲んでいる。

「あの女は悪夢の女王だ。私たちに破滅をもたらす。あの女は…私たちウマ娘の敵だ!」

「オル、いい加減にしなさい! あれほど私たちに対して尽力してくれる人はいないよ。余計な邪推はやめなさい」 

 私は姉に平手打ちされた。痛みと悔しさで涙が弾け飛ぶ。

【Dalbello - Easy】