私とサッチは東京に戻った。サッチは彼氏と同棲しているマンションに帰り、私は一人暮らしのマンションに戻った。我が姉ドリームジャーニーはすでに、婚約者の住むマンションに引っ越していた。私は現役レースウマ娘時代にしっかりと賞金を稼いだので、一人で学費や家賃や生活費を払う余裕がある。さらに、家庭教師のアルバイトだってしているのだ。
「はぁー、良かったな。また行きたいな」
しかし、私はこれからは姉ともサッチとも疎遠になっていくのだろう。彼女たちにはそれぞれの「男」がいるが、今の私には「男」も「女」もいない。
私は玄関のドアをしっかりと施錠し、リビングルームに入った。
「おかえり、オルフェ」
「貴様は…アウリファーベル!」
私は瞬間湯沸かし器のように頭が沸騰した。我が悪夢の女、 鏡の女 アウリファーベル。
「貴様、なぜここにいる? 今度は何が目当てだ? ヒトミミの明智紫苑という女はこの世にいない。そもそも、お前は何が目的なんだ?」
「同じは違う、違うは同じ」
「マクベスの魔女かよ! ふざけるな!」
私はアウリファーベルに殴りかかった。しかし、こいつは実体を持たない幻影だ。私の拳や脚は彼女の身体を捕らえられない。
「オルフェ、一つ忠告しておくよ。あなたの 眠れる森の美女 の復讐はこれから始まるよ」
「眠れる森の美女? 誰の事だ?」
サッチ…司馬佐智子? それとも、我が姉ドリームジャーニーか? まさか…かつての私の脳内に潜んでいた「あの女」か?
「明智紫苑。あなたの人間名と同じ名前の人だよ。あなたたちは今まで何度も殺し合っているけど、次はどちらが 斃 れるかな?」
いつの間にか、 私たち が増えていた。そうだ。私たちは、何人もの 普通の女 たちを犠牲にして、血まみれの栄誉と利益を得ていた。
「かわいい暴君さん」
「かわいそうに」
「あなたたちはこれまでも、これからも、悪夢の女王たちに悩まされていくんだね」
アウリファーベルたちの一人が、私の両耳から一対の金の勾玉を引きちぎる。
「痛い!」
私は両耳を押さえてうずくまる。鮮血が噴き出し、私の腕を汚し、身体を汚し、カーペットを汚す。
「これからはあなたも私たちの仲間。ひとまずはさようなら、我らが愛しの金色の暴君、オルフェーヴル。あなたはこれからも私たちと共に永遠に戦い続けるのね」
女たちの笑い声が鳴り響く中、私の視界は白く染まり、赤く染まり、黒く染まった。
実家の母のアトリエ兼寝室にベッドがある。赤いベルベットのシーツの上に、一人の女が横たわる。黒い髪、白い肌、赤いドレス。その端正な顔立ちにある薄い唇は、シーツやドレスと同じく真紅に彩られている。
眠れる森の美女、明智紫苑。我が愛しの分身。
私は彼女の艶やかな髪を撫でる。かつてのトレセン学園の職員としての彼女とは違い、腰まで届くほどの長い黒髪だ。いつか見た夢に出てきた緋奈という名の女にそっくりだ。その両耳には、あの一対の金の勾玉の耳飾りがあった。
「紫苑」
家の外は夕焼け空、淡い紅色に薄紫が混じり、やがて藍色へと変わっていく。黄金色の空気は徐々に闇に侵食されていく。
紫苑は、私が初めて会った時と変わらぬ若々しい美しさを保っている。白い首元には、父が製作した首飾りがある。ルビーのように鮮やかな紅水晶が妖しく輝く。何者にも汚されていない夢の中の女。私は彼女に顔を近づける。
幸せそうな寝顔。お前は…あなたは、私の事など忘れてしまったのだな? 我がメフィストフェレス、いや、グレートヒェン。いや、トロイのヘレナ。「金色の暴君」だった私の「国」を傾けた美女。我が愛しの 宿命の女 。この王の 接吻 を受けよ、眠れる森の美女よ。
「うっ!?」
女は起き上がり、私の首を絞める。
「うぐっ…!」
赤いドレスの女は凍えるような微笑みを口元に浮かべる。その眼は笑わず、怨念と殺意に満ち溢れている。
《Invidia et homicida voluntas mea est.》
「し、紫苑…、お前はなぜここまで執拗に私を翻弄する? そんなに、私たちウマ娘が憎いのか? 応えてくれ!」
女は私を嘲笑う。
「あんたらウマ娘たちが揃いも揃って美人ばかりなのは、私ら 一般女子 からハイスペックの旦那や彼氏を寝取って子孫を残すのを続けてきたからだよ。だから、 人間の女 である私があなたたちを憎むのは、至極当然なの」
ああ、また私の視界は白く染まり、赤く染まり、黒く染まった。私は、堕ちた。
「久しぶりにひどい夢を見てしまった」
我が友、司馬佐智子と同じ姿形を持ち、私の人間名と同じ名前を持つ女、明智紫苑。あれはどこまでも、私にとっては悪夢の女王だ。
私はアクセサリーケースの中身を確かめた。あの先輩の形見だった一対の金の勾玉は、なかった。
私の両耳には、ピアスの穴以外は何の傷跡もない。しかし、以前見た夢で両耳にあった金の勾玉の耳飾りを化け物に引きちぎられた時は、現実味のある痛みがあった。
「先輩、ごめんなさい。私、あなたの形見をなくしてしまいました」
他にも色々と喪失感がある。私は、虚無を抱える。私はサッチこと司馬佐智子とはいつしか疎遠になり、それぞれの人生を歩んでいる。
私とサッチは大学を卒業し、弁護士の卵として、それぞれ違う法律事務所に就職した。私はかつてのトレセン学園関係者たちとの関わりをほぼ絶っていた。我が姉ドリームジャーニー以外は、全員。姉はそんな私の身勝手さの尻拭いをしてくれている。私にとっては、三冠ウマ娘としての自らの過去は半ば黒歴史に等しいものだった。
姉の話によると、ゴールドシップは北海道の札幌で夫と共に焼きそば屋を経営して繁盛しているという。エアシャカールは某大学で研究者として勤務しているらしい。 新自由主義 的な女ジェンティルドンナは、彼女の父の右腕として辣腕を振るっているという。
私が住むマンションの一室に手紙が届いた。しばらく疎遠だったサッチ…司馬佐智子からの結婚式の知らせだ。
「オル、司馬さんが結婚するんだね」
「お姉ちゃん」
サッチからの手紙によると、新郎は新婦の苗字に改姓するらしい。確かに、サッチ自身が夫の苗字に改姓するのはもったいない。なぜなら、サッチの夫となる人物の苗字は、どこにでもいるありふれたものだからだ。
「久しぶりにサッチに会うんだ。きちんとした格好で行かなきゃ」
私は藍色のドレスに身を包み、サッチの結婚式に立ち会う。神前結婚式だが、私はそこで初めてサッチの夫と出会った。私は、今まで感じた事がなかった衝動に取り憑かれた。 ほしい 。
《オルフェ、目を大きく開けて、そして閉じて》
私は立ち眩みで視界が白く染まり、赤く染まり、黒く染まった。またしてもだ。私は、底なしの血の池地獄に溺れた。
「鬼百合の球根は死んだ女を養分にする」
夢の中。鬼百合が咲き乱れる闇の中。私の足元に横たわるヒトミミの女、明智紫苑…いや、司馬佐智子の死体。それは四肢を切断され、両眼をくり抜かれ、舌も切り落とされ、腹を裂かれている。全身血みどろの私とサッチ。この女の死体は全裸だが、赤と紫の衣に身を包んでいた私は涙を流す。
そうだ。私たちウマ娘たちは、無数の 普通の女 たちの山積みにされた遺体の上に立って、走って、新たなウマ娘たちを産んで育てている。
「オル、またお前もコバエをもう一匹つぶすんだね」
我が姉ドリームジャーニーがつぶやく。
《オルフェ、目を大きく開けて、そして閉じて》
ああ、私は目を大きく閉じて眠るよ。
【Dalbello - The Revenge of Sleeping Beauty】