「オルフェ、目を大きく閉じて」
その女は柔らかな声で言う。何だ、その矛盾した言い回しは?
その 一般女性 は私と同じくらいの身長で、私と同じくらい細身の体つきだ。艶やかな黒髪をショートボブに切り揃え、清潔感のある格好をしている。白くなめらかな肌で、中性的で端正な顔立ちの若い女だ。仮にこの女の頭上に自分と同じような耳があっても違和感がない容姿だ。
明智紫苑 、24歳。某大学の卒業生だという若手トレーナーは、この〈チーム・アヴァロン〉の監督であり、私は姉とともにこのチームに所属している。しかし、なぜ私がこの女と契約したのか、その経緯を思い出せない。気がついたら、私はこの女の率いるチームにいた。メンバーは現時点では5名。ダートのカシンフォースタス、マイルのヒナアスターティ、短距離のバールヤムナハル、そして、私の姉ドリームジャーニーと私自身、すなわちオルフェーヴルだ。
姉は紫苑の真面目で誠実な人柄をほめている。しかし、私は基本的に姉を信頼しているが、この明智紫苑という女は信用出来ない。なぜなら、この女が私を見る目は、基本的に笑っていないからだ。
「紫苑。貴様は相変わらず訳が分からない物言いをする。もっと要領を得た言い方をしろ。余は気分が悪い」
「ああ、気分が悪いんだね。ジャーニー、オルフェを保健室に連れて行って」
「おい!」
私は姉に強引に引っ張り出されて、部室を出ていき、保健室に連れて行かれた。明智紫苑、健全な鈍感さを装う悪女。あまりにも不愉快過ぎる。
しかし、行き過ぎた憎しみはかえって恋愛感情に似ている。
疲れた。まるで、あの女に生命力を吸い取られたように。仮病を強いられるどころか、実際に気分が悪くなってしまった。私に対して、二度も希死念慮を抱かせた女。
私は保健室のベッドに横たわり、夢を見た。
「あの女はメフィストフェレスだ」
ならば、私はファウスト博士だ。私があの女のチームに加入したのは、契約というよりはむしろ「賭け」だった。その学歴が見掛け倒しではない頭の回転の速さ、並みの 一般人 以上の身体能力。まるで、ウマ娘と一般人の 境界線 だ。一見愚直なようでいて、実はしたたかなやり手の女は、蘇秦や張儀のように口八丁手八丁で、私たち姉妹を自らのチームに引きずり込んだ。
他の三人のウマ娘たちは気の良い奴らだ。いずれもあの女を慕っている。不気味なまでに人たらしのあの女は、我が冷徹にして賢明な姉までも心酔させている。
目が覚めた。寮の部屋だ。目覚まし時計を見ると、午前2時。いつ私は寮に戻ったのか? 同室の姉は安心しきった寝顔で熟睡している。
私の記憶は、あの女と出会って以来、穴だらけだ。まるで、自分自身の中に別の人格が宿っているように。実際、私は表向きには尊大な「君主」を演じて生きている。私の「臣下」を名乗る連中は、表向きには封建制時代の者たちのように私に従っている。それは私があの女と出会う以前からだった。
しかし、多分私はそれ以前にあの女と出会っている。それも、何度もだ。
私の両親は仲睦まじい夫婦であり、私たち姉妹はその深い愛情によって育てられた。本来ならば、私は奇矯な裸の王様を演じる必要がない女だったはずだ。そんな私がなぜ、心を病んだ毒親育ちの女のようになってしまったのだろうか? 私はいつ悪魔に魂を売ってしまったのだろうか?
「オル、眠れないのかい?」
「姉上…いや、お姉ちゃん」
姉が目を覚ましてこちらを見ている。
「昨夜の焼肉パーティーは楽しかったね」
「え?」
「私たちのトレーナーさんは楽しい人だ。人をもてなすのがうまい」
何を言っているのだろう? 私は焼肉パーティーに参加した覚えなどない。校内の保健室のベッドで眠ったままで、今目覚めたら、この部屋のベッドで横になっていたのだ。
「オル、おやすみ。目を大きく閉じてね」
「先輩…」
「オルちゃん、ありがとう」
私が今もなお尊敬している先輩ウマ娘は、ある財閥の当主と政略結婚した。しかし、その結婚生活はお世辞にも幸せとは言いがたく、事実上の一妻多夫を強いられて何人もの男たちの子を産むという多産DVの被害に遭っていた。そういえば、あのジェンティルドンナの姉と弟も、ジェンティルとはそれぞれ父親が違うという噂がある。いわゆる「上級国民」のウマ娘たちは、よしながふみの漫画『大奥』の女将軍たちと同じく、事実上の一妻多夫制を認められている…あるいは、強制されている。
先輩は色々な意味で搾取されて、やせ細っていた。
かつての美貌の面影はあっても、先輩は実年齢よりもはるかに老けて見えた。我々ウマ娘たちは、 一般女性 よりも外見に恵まれている者たちが多いが、それゆえに、 普通の女 たちに妬まれ、憎まれている。そう、文明開化以降の日本に西洋生まれの思想であるフェミニズムが上陸するまでは、ヒトミミとウマ娘たちは呉越の戦いのような不倶戴天の敵同士だった。
私の母方の曾祖母は、あの平塚らいてうや与謝野晶子と同じ時代に生きていたフェミニストだったが、一般女性フェミニストの友人の夫を寝取り、自らの家庭を築いた。その娘、そして、そのまた娘たちも、ヒトミミから男を奪って娘たちを産んだ。そんな曾祖母の恋敵は、割腹自殺を図って死んだらしい。姉と私は、呪われた血統の女たちなのだ。
私は実家の母のアトリエで、若い頃の母のアルバムを見つけた。その中に、一度破り捨てたのをテープで貼り直した写真があった。その写真に写っていた一人の一般女性は母より数歳年上の若き担当トレーナーだったが、母は彼女の恋人だった男を寝取り、結婚した。そう、その馴れ初めによって結ばれた夫婦から生まれたのが私たち姉妹だった。
そうだ。私は以前、トレセン学園の図書室でたまたま手にした本を通じて彼女の存在を知った。私はインターネットで彼女について検索したが、彼女は私の曾祖母の恋敵と同じく、割腹自殺で亡くなっていた。ならば、私は「彼女たち」の怨霊に祟られているのだろうか?
私が尊敬する先輩は、自らが望まずして、少なからぬヒトミミたちを敵に回し、非難された。先輩の「夫たち」の中には、何人かの既婚者たちもいたのだ。
「オルちゃん。あなたのお父様からいただいたこの耳飾り、私の形見としてもらってほしいの」
先輩は、私の父が製作した耳飾りを私に渡そうと…返そうとした。シンプルな金の勾玉が一対。それは「魂」の形だ。この人には私の父の子までも産んだという噂がある。それは嘘であってほしい。
「先輩、私はそれはいただけません」
「いいえ、私はこれを返さなくてはならないの。私にはこれを持つ資格はない」
ああ、数年前に亡くなった先輩の夢をまた見てしまった。これもまた、私があの女と出会ってからたびたびある事態だ。
姉は相変わらず、ウマッターなどのSNSで私たち家族の自慢をしている。またしても、毒親育ちのヒトミミたちを敵に回して挑発しているのだ。姉は一部の者たちから「インテリヤクザ女」だと言われて恐れられているが、実際にはあの女とは対照的にナイーヴだ。内面と人当たりの組み合わせという点においては、私の姉はあの女とは逆なのだ。少なくとも、あの女は私の姉が思うほど善人ではない。
《あなたは実に純粋で、誠実なお方だ。ふ…おかわいらしいですね》
お姉ちゃん、そいつは不純で不誠実でかわいくない女だよ。そいつは私たち家族に取り憑く悪霊と同じ「明智紫苑」という名前なのだから。
あの写真に母と並んで立っていた女は、まさにあの女そっくりだったのだから。さらに、曾祖母の恋敵にも。
【Dalbello - Heavy Boots】