《貴方は実に純粋で、誠実なお方だ。ふ…おかわいらしいですね》
ふん。成人女性、すなわち担当トレーナーである私に対する悪口としては、究極レベルのひどい暴言だな。要するに、あんたにとっては「お前はバカで単純で鈍感なただの凡人でしかない『コバエ』」だと見下しているんだね。それこそ、「あなたはずるい人だ」という非難の方がよっぽど全く真っ当な「ほめ言葉」だ。
《……いい子だ》
この子…いや、この女 は自分より年上の成人女性に向かって「いい子だ」呼ばわり…。私はまだ20代前半だから、まだまだ実年齢より若く見られて喜ぶ年齢ではない。というか、自分より年上の人間を「いい子だ」呼ばわりするなんて、やっぱり根本的にトレーナーである私をバカにしている悪女だよな。
ドリームジャーニー。それが彼女のウマ娘としての名前。いわゆる「人間名」はこの際どうでもいい。もちろん、彼女の鼻持ちならない妹オルフェーヴルもだ。
とりあえず、彼女は作家の桐野夏生の小説『グロテスク』に登場する元絶世の美女〈ユリコ〉のような魔性の女である。同じく作家の中村うさぎの造語「闇フェロモン」の権化である。そのユリコの姉〈わたし〉が妹によって自らの暗黒面を暴かれたように、このウマ娘ドリームジャーニーは彼女の妹オルフェーヴルと同様に、私自身の暗黒面…すなわち白雪姫の継母、もしくは『春秋左氏伝』の叔向の母親を暴いたのだ。
そう、私は中央トレセン学園のトレーナーという肩書を持ちつつも、同じ「女」であるウマ娘たちを心底から憎んでいる。
私の担当ウマ娘の一人であるドリームジャーニーは、これ見よがしに家族自慢をする。自分の目の前にいる一般女子 が毒親育ちであるのを知らずに。
私の母親はウマ娘だった。だけど、私は一般女子 として生まれた不肖の娘だ。母は、自分の夫、すなわち私の父からモラハラやDVを受けていたけど、その鬱憤晴らしのために私を虐待した。
「ジャーニー、あなたの目の前にいるコバエ を片付けなさい」
「はて…? コバエなど飛んでいませんよ」
「あなたの目の前 にいるでしょ?」
「え…?」
「あなたほどの怜悧な知能の持ち主なら、完全犯罪など簡単でしょ? あなたが大嫌いなコバエ 一匹ごとき、さっさと片付けるのは容易いでしょう」
ジャーニーは顔面蒼白だ。私は口元に冷笑を浮かべる。
「それとも、あなたの美しい 妹君に私を粛清 させる? さぞかし見ものだろうね?」
ジャーニーは私の挑発に対してうろたえる。面白い。
「トレーナーさん、一体どうされたのですか? 私が信じていたトレーナーさんとは別人のようです!」
「これが本当の私だよ。あなたは冷徹な割には情にほだされやすい。私にとっては、そんなあなたの性格や言動が心底から大嫌いなんだよ」
「そんな…!」
ジャーニーの両眼から涙が溢れ出す。
「さあ、殺 りなさい。私の首級 を全人類への反逆の狼煙 にするがいいよ」
ジャーニーは私に抱きつく。
「トレーナーさん! お願いします! どうか正気を取り戻してください! 何でもしますから!」
「何でもする?」
「はい!」
「だったら、私を殺して。私はもう、あなたたちウマ娘とは関わりたくないの」
私は泣きじゃくるジャーニーを放っておいて、校舎の屋上に上がった。オルフェーヴルが、いた。
「貴様。余の…いや、私の姉に対して何をした?」
私は精一杯の嘲笑を彼女に向けて挑発する。
「オルフェーヴル大帝陛下 、どうか私めに死を賜りたい」
「なぜだ?」
「あなたたちウマ娘たちの顔に泥を塗るためよ」
オルフェーヴルはその美しい顔をさらに鋭く歪ませる。
「貴様、見どころがある奴かと思ったら、そのような愚か者だったとは、見損なったぞ!」
「愚か者? どうせなら『邪悪』と呼んでもらいたいね。私は善人を演じるのに疲れたの。あなたでも いいから、さっさと私を粛清 してよ」
オルフェーヴルは私の襟元をつかむ。
「貴様! 私の姉上が、いや、お姉ちゃん がいかにお前 を慕っているのかが分からんのか?」
「ああ、分かりたくない ね。『ファイブスター物語』のエルメラや巴がファティマたちを憎んだのと同じ事だよ。あんたらウマ娘たちが揃いも揃って美人ばかりなのは、私ら一般女子 からハイスペックの旦那や彼氏を寝取って子孫を残すのを続けてきたからだよ。だから、人間の女 である私があなたたちを憎むのは、至極当然なの」
「おのれ…!」
オルフェーヴルは、私の喉を片手だけでつかみ、窒息させた。
「姉上…いや、お姉ちゃん 。私、この人を殺してしまった」
オルフェーヴルは自分より小柄な姉ドリームジャーニーに泣きつく。ジャーニーは、妹の背中をさすり、頭を撫でる。
「オル、この人はまだ助かるかもしれない。救急車を呼ぼう」
「私は、取り返しのつかない事をしてしまった」
オルフェーヴルはその場に崩れ落ち、泣きじゃくる。日本ウマ娘トレーニングセンター学園の所属トレーナー、明智紫苑は府中市内の総合病院の集中治療室に運ばれたが、数時間後に死亡した。享年24歳。
【林原めぐみ - Come sweet death,second impact】