「凡庸な悪」というべき事態に対して、わざわざ「あたおか」とかいう(変に日和りつつも差別欲を隠し切れない)造語を使うべきではないだろう。精神障害者を差別したい欲求を思いっ切り感じさせる表現だし。そこら中に転がっている「凡庸な悪」を非日常的な「狂気」として切り捨てるな。安易な性善説論者ほどそうしたがるがな。
それはさておき。
いわゆる「まずい料理」には2種類ある。一つは「味が薄い」、もう一つは「変な味がついている」だ(後者には「味が濃過ぎる」も含まれる)。それと同じ事は、人間の容姿に対する評価にも言える。さらに、それは性格や人格にも言えるのだ。「味が薄い」性格や人格とは、要するにその人「個人」が感じられない事態であり、「変な味がついている」性格や人格とはズバリ、協調性のない「性格ブス」である。
しかし、パクチーという香味野菜が賛否両論あるように、平均的・一般的な価値観の持ち主には嫌われるキャラクターが、むしろ一部の人たちには受け入れられるという事態もある。性格の良し悪しとは、要するに外見の良し悪しと同じく個人の好みの問題である。だからこそ、自分自身の意志であえて「性格ブス」として生きていく人間がいるのだ。自分を変えてまではモテたくないからね。
中村うさぎ氏の昔のエッセイに「『人間』としての魅力と『女』としての魅力は違う」と書いてあった覚えがあるが、その「人間」と「女」の2つの要素を持つがゆえに、自意識がややこしくなっている女性は少なからずいるのではなかろうか? 「人間」と「女」の2つの自意識を持つがゆえの矛盾に悩む女性は、多分それなりに存在するだろう。
男性たちの中にも「人間」としての自意識と「男」としての自意識との間で板挟みになる人はいるのかもしれないが、そのような事態は女性はさらに顕著ではないかと、私は思う。ズバリ、「人間」としての幸せと「女」としての幸せは一致しない。そして、フェミニズムに「触れてしまった」女性たちは「人間としての幸せ」と「女としての幸せ」の究極の選択で悩まされる羽目になる。
女性が追求する「女としての幸せ」とは、男性を経済的・社会的に搾取する恐れがある。もっと露骨に言うならば、いわゆる「家父長制」並びに「男尊女卑」というシステム自体が、女性が効率良く男性たちを搾取するために男性たちを操って作らせたものである可能性すら考えられるのだ。そして、そのような「ズルさ」を持てる女性たちこそが子孫を残すのに有利になり、結果的に「男より女の方が現実的だ」という俗説のある事態になったのだろう。
前述の中村うさぎ氏の別のエッセイに「専業主婦とは、実は男ではなく女が考えたシステムだったのではないか?」と書いてあったのを思い出す。いわゆる「木嶋佳苗」という「概念」こそが、その可能性を匂わせる。ただし、「概念」ではなく一人の人間女性としての木嶋佳苗受刑者に専業主婦願望があったとは思えない。仮にそのような願望があれば、結婚詐欺とその後始末としての殺人事件などを起こさずに、真面目に婚活をして家庭に収まっていただろう。しかし、実際には結婚詐欺事件とその後始末の殺人事件という形で、佳苗は結婚制度を冒涜した。
昔、某雑誌に掲載されていたジャーナリストの対談記事に「彼女(木嶋佳苗)の中でいくつもの価値観が同居している」という発言があった。私はそれに対して「え? それって当たり前じゃないの?」と疑問に思った。人間の内面とは「多面体の中の液体」である。状況次第でいくらでも揺れ動く。さらには、色や温度までも変わる。むしろ、常にたった一つの価値観しか持っていない人間こそが少ないのではないのか? 本当に「単純」な人間は多分、少数派だ。
料理の味に対する感じ方だって一定ではない。だから当然、人間の内面に対する評価も常に揺れ動く。相手も、自分も、常に中身が揺れ動くのだ。
余談だが、私が以前ツイッターやnoteでフォローしていたある若い女性は、木嶋佳苗受刑者に対して「あの人はむしろハイスペックだ」と評していた。確かに、男性に取り入る才能「だけ」は間違いなくハイスペックであろうが、某大物女性作家は「知人の発言」として「モテない男性たちの間でのみ出回っている通貨のような人」だと評していた。ただし、この大物作家自身が若い頃はコピーライターとして活躍していただけあり、自分自身が思いついた言葉を「知人の受け売り」だと偽った可能性はある。
【Yerin Baek - Square】
いわゆる「K-POP」の(典型の)枠組みではない韓国人ミュージシャンで良い人がいるか探したら、このペク・イェリンさんという人の曲が見つかった。日本人ミュージシャンに例えるなら、宇多田ヒカルさんをある程度ロック寄りにしたような音楽性かな?