私が子供の頃(並びに青春時代)の演歌は、真の「ポピュラー音楽」だった。子供心にも「良い曲だ」と思える楽曲は少なくなかった。それに、もっと後の時代の演歌に比べて、楽曲のバリエーションが豊かだった。北島三郎の「まつり」は黒人音楽的なファンキーなリズム感が魅力的な楽曲だし、坂本冬美の「夜桜お七」はロック的なカッコ良さのある楽曲だ。この2曲は特殊な構成の楽曲だとしても、それでも昔の演歌は魅力的だった。
例えば、今は亡き大瀧詠一氏が何人かの演歌歌手たちに楽曲を提供していたし、それらは単なる演歌の枠組みを超えた魅力がある(まあ、天下の「ポップス仙人」の神通力だし)。80年代までの演歌界は、悪くはなかった。
しかし、演歌界は徐々に「退化」していった。素人のオジちゃんオバちゃんたちがカラオケで歌いやすくするために、後の「なろう系」小説と似たような「テンプレート」が定められ、似たり寄ったりの楽曲ばかりになってしまった。そして、かつては真の「ポピュラー音楽」だった演歌は、マニアックな音楽ジャンルになっていった。
(演歌歌手としてデビューした氷川きよしが、演歌以外のジャンルの曲をも歌うようになったのは、やむを得ない事である。氷川氏の人気は氷川氏個人の人気であり、決して「演歌」という音楽ジャンルそのものの人気ではない)
演歌の衰退の要因の一つは、音楽性の「硬直化」である。他のポピュラー音楽のような柔軟性を排除した結果、風通しが悪くなった。これはいわゆる「レゲエ」とは対照的である。現在「レゲエ」と呼ばれる音楽ジャンルは、昔よりも多彩なもののように思えるが、演歌はひたすら「様式美」に執着するだけだ。演歌と同じく「様式美」の代名詞であるヘヴィメタルでさえもとことん多様化しているのに、演歌界の「保守性」はポピュラー音楽としてはあまりにも異様である。
(ただし、ウィキペディアの「レゲエ」のページによると、レゲエとは「広義においてはジャマイカで成立したポピュラー音楽全般のことをいう」らしいので、上記は私の勘違いかもしれない)
保守性といえば、おそらくは歌詞の世界観も演歌の人気低下の理由の一つである。演歌的な世界観でのジェンダー観は、明らかに現代社会にはそぐわない。「尽くす女」「待つ女」はただ重苦しいだけだ。演歌歌手ではない西野カナのラブソングの歌詞のヒロインみたいな「彼氏に会いたくても会えない女」よりもはるかに重い。
多分、演歌ファンの中心である中高年者の多くは、演歌以外の音楽ジャンルを聴かず、それゆえに音楽的美意識が磨かれないのだろう(何しろ、ロックだって、ミュージシャンもリスナーも高齢化が進んでいるのだ)。そんな退廃的な演歌ファンたちに作り手たちがおもねった結果、演歌は徹底的に古臭い音楽ジャンルになってしまった。どれだけ歌がうまい歌手たちを揃えても、肝心の楽曲が過去の名曲の焼き直しに過ぎないなら、新規ファンを得るのは難しい。
【坂本冬美 - 夜桜お七】
藤あや子さんの盟友である坂本さんだが、藤さんは元々ロックファンで、あるインタビューでは「将来、ロックバンドを結成したい」とコメントしたらしい。いっその事、坂本さんとのツインヴォーカルでバンドを組めば良いな。
《オマケ》
今時の演歌よりもこちらの方がいいわい。ただ単に「歌のうまさ」だけが目当てなら、クラシックの声楽曲でもジャズでもボカロ曲でもいいべや。
【初音ミク】 細菌汚染 - Bacterial Contamination - 【3DPV】