「麗しの君子」楽毅

 クレマチスの花言葉は「高潔」と「企み」だという。この相反するかのような二つの花言葉は、ある人物を連想させる。

 三国志の諸葛亮が尊敬していた人物の一人である燕の将軍、楽毅である。 


 中国の戦国時代で「戦国七雄」に数えられる国の一つに燕があるが、この国はお家騒動に隣国・斉の侵略がかぶさり、メチャクチャにされた。そのメチャクチャの後に即位した昭王の臣下に、「まず隗より始めよ」の郭隗 かく かいがいた。この郭隗の「私程度の人材を優遇すれば、もっと優秀な人材が仕官してきますよ」という進言の最大の成果が、我らがヒーロー楽毅の仕官だった。というか、楽毅以外の人材がほとんど目立たないので、秦の孝公が商鞅 しょう おうを「一本釣り」したのとあまり大差ない気がする。

 楽毅は小国中山 ちゅうざん の出身だったが、先祖は魏の将軍楽羊だった。楽羊は「あの」呉起と同じく文侯に仕えていたが、中山国攻略の際に敵に自分の息子を殺されてスープにされてしまった。楽羊は魏国への忠誠を示すために、あえてそのスープを飲んで中山軍を破ったが、他の重臣に「我が子を殺されて食うような奴などろくなもんじゃないですよ」と讒言され、敬遠されるようになった。そんな楽羊の子孫が中山国に居着き、楽毅が生まれた。

 楽毅は中山滅亡後、一旦趙に仕え、さらに魏に行ったが、燕の人材募集を知り、仕官しに行った(『戦国策』には趙の武霊王に仕えて何やら進言していた話があるが、よく分からん)。燕の昭王は、この知勇兼備で志操堅固で焼肉定食な人材(「焼肉定食」は余計だ)がやって来たのを喜び、高位に就けた。


「楽君、我が国の敵である斉を討ちたいのだが、どうすれば良いのかな?」 

「まずは、他国との同盟です。多国籍軍であの国をシバきましょう」


 昭王は楽毅を大将軍に任命し、趙の恵文王は楽毅に宰相の印綬を授けたのだが、なして趙王が外国人の楽毅に宰相の印綬を? まあ、斉の孟嘗君が秦の宰相になった先例があるが、その孟嘗君は一応主君である斉の湣王 びんおうを内心見捨てていたようだ。

 楽毅は燕・趙・韓・魏・楚の連合軍を率いて斉に攻め込んだ。首都の臨淄 りんし を占領し、後は二つの城を平らげるだけだったが、主君の昭王が亡くなり、それに乗じた斉の将軍田単の策略により、楽毅は失脚して趙に亡命した。 

 昭王の跡を継いだ恵王は、使者を通じて楽毅を責めたり弁解したりなどしたが、それに対する楽毅の返事の手紙が後世の彼の評価を高めた。曹操や諸葛亮が楽毅ファンになったのは、彼の「真心」に感動したからである。


 しかし、ひねくれ者の私は思う。この人、後世の評価を意識して問題の手紙を書いたのではなかろうか? 自らの賢明さと恵王の暗愚さをアピールするためにこそ、あの手紙を書いたのではなかろうか? 

 そんな「計算高い君子」楽毅の手紙と比べると、マロリー『アーサー王の死』でのガーウェインのランスロット宛の手紙は素直に感動出来る。というか、ランスロットみたいな野郎がアーサー王相手に楽毅気取りの手紙なんぞ書いて送ったら、それこそ「盗っ人猛々しい」事態である。

【椎名林檎 - 茎(STEM)~大名遊ビ編~】