ある人曰く「うちの大学には、ゴールドシップを人間にしたような顔つきの教授が何人かいる」。うーん、人間版ゴルシが何人も同じところにいるなんて、なんかものすごい。そもそも、ゴールドシップというお馬さん自体が、たとえ無表情でも何かを言いたそうな(というか言いそうな)顔つきに見えてしまうのだ。それくらい、ゴールドシップという稀代の天才名馬には「人間的な」キャラクターイメージがある。
それはさておき、私が思うに、人間版ゴールドシップというイメージの人物は何人かいる。現代のプロ野球界では、清原和博氏と新庄剛志氏にそれぞれ違う意味で「人間版ゴールドシップ」というイメージがある。清原氏は「番長」要素が、新庄氏は「エンターテイナー」要素がゴルシに似ているのだが、当然、歴史上の人物にも「人間版ゴールドシップ」は存在した。
まずは、中国・前漢王朝の中山靖王劉勝が「人間版ゴールドシップ」である。彼は曽祖父である高祖劉邦の「英雄色を好む」要素を受け継ぎ、かなりの子沢山だった。その子沢山ぶりゆえに、三国志の劉備の先祖だとされているが、それが事実でも、劉備自身の後漢王室との血統上の距離は遠い。魏に仕えた劉曄の方がよっぽど後漢王室本筋に近い血統の人物だった。
その劉勝には、同母兄の劉彭祖がいたが、この二人は仲が悪かった。劉勝は兄に対して「兄貴。あんた、何、能吏ぶって、真面目に仕事してますアピールしてるんだよ? 気楽に趣味を楽しもうぜ」と嫌味を言っていた。彭祖はそんな「不肖の」弟に対して「あんな馬鹿な遊び人は王族失格だ」と非難していた。しかし、宮城谷昌光氏はそんな「ダメンズ王族」劉勝を弁護する記事を『史記の風景』(新潮社)で書いている。
劉勝の墓は、1968年に発見された。その中には、劉勝の遺体に着せていた「玉衣」という玉片をつづりあわせて製作した死に装束があった。その全長は188cmほどだというので、劉勝は古代エジプトのラムセス2世と同様の大男だった可能性が高い。この身体的特徴や子孫繁栄ぶりからして、劉勝やラムセス2世は「人間版ゴールドシップ」だったと言える。
宮城谷氏は劉勝の墓の正面が東に向けられており、それに対して「死後も東方(すなわち、反逆者が現れる危険性が高いところ)ににらみをきかせるという劉勝の意識がそこにみられるとすれば、天子を佐 け、藩 の臣でありたいという劉勝の心を読みとることはできる」と評している。すなわち、生前の劉勝の「バカ殿」イメージとは、後の日本の加賀藩主前田利常の「鼻毛」と似たような演技(中村うさぎ氏が定義した「姥皮」の男性版)だったと言えるだろう。
古代エジプトには、中山靖王劉勝のような君主がいた。古代エジプト第26王朝のファラオ「アマシス」ことイアフメス2世(在位:紀元前570年 – 紀元前526年)という人物である。彼は元々前王アプリエス(ウアフイブラー)に仕える将軍だったが、反乱軍の鎮圧のために出陣した。しかし、彼は反乱軍のアプリエス政権に対する不平不満の訴えを聞き、反乱軍の側についてアプリエス政権を倒した。
アマシスは王位についたが、彼は元々平民出身であるゆえに、一部の国民たちになめられていた。そこで彼は一計を案じた。
ある街に一体の神像が設置された。信心深い国民たちはその像を崇めたが、アマシスは「この神像は元々、足などを洗うタライを材料にして製作したものだ。私は元々しがない平民だったが、今はこの国の王である。要するに、私は元金ダライの神像のような立場だ。君たち国民はこの国の最高責任者としての私を信用して、敬意を払っていただきたい」と言った。そして、高官たちや国民たちはアマシスに対して敬意を払うようになった。
そんな名君アマシスは、平民時代は若い頃の劉邦のような「無頼」な生活を送っていた。当時の彼は窃盗罪で逮捕されて、神殿で裁判を受けて有罪になったり、無罪になったりしたが、王位に就いてからのアマシスは、若い頃の彼の罪状を正しく裁いた神殿を丁重に扱った。
アマシスは仕事モードと遊びモードをうまく使い分けられる人物だった。
「陛下、遊び過ぎですよ」
「何言ってるんだ? 俺の姿勢は弓の使い方みたいなもんだよ。いつも張り詰めたままだと、折れてしまう。そうなりゃ、肝心な時には使えない。人間のあり方もそれと同じだ。たまにはくつろいで休まなければ、肉体的にも精神的にもしんどくなるから、『仕事モード』と『遊びモード』をうまく使い分ける必要があるんだよ』」
現役競走馬時代のゴールドシップは、運と根性の無駄遣いをせずにG1レースを6勝した名馬のようだが、そんな彼の前世だったかもしれない人物たちこそが、中山靖王劉勝と「アマシス」イアフメス2世である。
【Eagles - Take It Easy】