「妹」とは何か

 私は四人兄弟の次女である。しかし、本来は一人っ子だった。私が小学2年生の頃に母親が再婚して血のつながらない兄と姉が出来、2年後に種違いの弟が生まれた。

 昔、ある番組で「人は兄弟姉妹順で、ある程度性格が決まる」という説が紹介されたが、これは血液型占いなんかよりもはるかに説得力がある。なぜなら、人間の性格とは、他者との関係性に左右されて形成される要素が大きいのだから、兄弟姉妹順で性格がある程度決まっても不思議ではない。

 私は一人っ子として育った時期がある程度あるので、「姉キャラ」「妹キャラ」という要素はそんなに強くないだろうが、どうも私は、年下の同性に対して苦手意識がある。従妹たちとは特に仲は良くないし、母親の交友関係を通じて出来た年下の女友達との関係も、精神的に疲れるものだった。 

 

 いわゆるオタク男性には「妹キャラ」に萌える人が少なくないが、おそらくそんな人たちには、実際には妹はいないだろう。実妹・義妹のいずれにしろ、実生活で妹がいる男性は「妹」という概念に対して余計な幻想を抱かないだろう。いや、どんな物事にも例外があるか。

 桐野夏生氏の小説『グロテスク』は、東電OL殺人事件をモチーフにしたものだが、これには「外見」「ヒエラルキー」「レイシズム」などのテーマがある。しかし、他にも注目すべき要素がある。ズバリ、「姉(elder sister)」ならぬ「妹(younger sister)」という概念だ。この小説は「妹」という存在に対する男女の見方の違いが描かれている。 

 メインの語り手「わたし」は、自分が白人の血を引くのを鼻にかけているが、純日本人が「ハーフ」の女性に対して期待するような美貌を持たない。その代わり、自分の分までたっぷりと美貌を身に着けている妹ユリコを憎んでいる。しかし、そのユリコを殺した犯人である中国人男性チャンは、自分の実の(ユリコと同じく美女だったらしい)妹に対して、単なる兄弟愛以上の感情(もっとハッキリ言うなら欲望)を抱いていた。

 この小説の「わたし」がユリコを憎んでいたのは、同性同士としての嫉妬や劣等感ゆえである。しかし、「わたし」の妹への悪感情とは、チャンの「妹萌え」と紙一重だ。ズバリ、「わたし」のユリコに対する憎しみとは、レズビアン的かつ近親相姦的な欲望の裏返しなのだ。その証拠に、彼女は妹の忘れ形見であり、自分の甥である美少年を溺愛するのだ。

 

 私に妹がいなかったのは幸いだ。なぜなら私は、世間一般の同性に対する劣等感の塊だからだ。自らの女としての自信のなさゆえに、私は「妹キャラ」的な女性像を嫌う。私は以前、ヤフー知恵袋の某カテゴリーで、ある若い女性ユーザーと親しくなったが、彼女は「妹キャラ」や「理想の娘」イメージを売り物にして男性常連さんたちに取り入ってチヤホヤされていたので、私は彼女とケンカ別れした。すでに夫と息子がいる身でありながらも、未婚子なしの私を差し置いて「オタサーの姫」と「名誉男性」双方の役得を得ていい気になっている。そんな同性に対して反感を抱くのは、女として当然の心理である。

 私は「妹キャラ」で男に媚びる女が嫌いだが、同様の理由でファザコン女も嫌いだ。なぜなら私は、物心つく前に実父と死に別れた上に、母親の再婚相手である継父といがみ合っていたので「ファザコン」にはなれなかったのだ。当然、ファザコンアピールで自らを「育ちが良くて恵まれた女」に見せかける女が目障りだ。マザコン男は異性である分、他人事だからどうでもいいが、ファザコン女は同性である分、近親憎悪を抱かせるので好きにはなれない。

【Elvis Presley - Little Sister】

「little sister」で検索したら、ズバリ、エルヴィス・プレスリーの曲が出てきた。ちなみに、某春秋戦国時代小説の登場人物一覧で、本来なら「藺相如 りん しょうじょ」であるハズの人物が「司馬相如」と誤植されていた(ただし、後に出た文庫版ではさすがに修正されたようだ)。

 前漢の文人司馬相如の名前の由来は、戦国時代の趙国の名臣藺相如だが、この二人の名前を間違えるのは、要するにエルヴィス・プレスリーとエルヴィス・コステロを間違えるのと似たようなものである。