ツイッターには、様々なフェミニズム系アカウントの人たちがいる。たいていは女性だが、中には少数ながら男性もいる(もしかすると、ネナベかもしれないと思わせるユーザーさんもいるが)。さらに、フェミニズムは一人一派だけあり、フェミニスト同士の意見対立(内ゲバ?)も少なからずある。まあ、そもそも当人らは互いを「仲間」などと思っていないだろうけどね。
私は自分なりの流儀でフェミニストでいるつもりだが、だからこそ、当然、自分とは違う流派のフェミニストの方々に対しては、少なからぬ反感を抱く。
あるツイッターユーザーさんはこう言った(以下、原文通りではなく、意図的に文体などを変えている)。
《自分自身が女性なのに「私はフェミニストではない」と言う人が多いのは、抑圧された結果だけど、それは「自分の人権はいらない」と宣言してるようなものだと、私は思う》
それに対して、別のツイッターユーザーさんがこう反論した。
《女性が「自分はフェミニストではない」と発言したとしても、それで「自分は人権はいらない」と宣言したことにはならない。何を選択し、どのような人生を歩むかは人それぞれの自由だ》
確かに、女性が「フェミニスト」になろうが、いわゆる「名誉男性」になろうが、それはあくまでもその人自身の自由である。まずは、自分がどうすれば幸せになれるかが大事であり、その手段が「フェミニスト」だろうが「名誉男性」だろうが、個人の自由である(少なくとも、他人を蹴落とすまではしない限りは)。そもそも、いわゆる玉の輿願望を抱いている女性は今もなおいるのだし。
(ただし、今時「婚活」をしている女性は、大なり小なり「女社会」での立ち位置が不安定そうに思える)
それに、せっかくフェミニストを自称しても、他のフェミニストの方々から「偽物」呼ばわりされる可能性がある。私も一応はフェミニストでいるつもりだが、心情的には「名誉男性」に対してもそれなりに共感する(というか、「名誉男性」を批判するフェミニストに反感を抱く)。なぜなら、それは「あり得たかもしれない自分」だからである。そんな軽薄な私を「偽物」認定する人は少なからずいるだろう。
しかし、私は宮城谷昌光氏の『楽毅』とバーナード・コーンウェル氏の『小説アーサー王物語』3部作を読み比べて、「夫に従うだけの狐祥(楽毅の妻)にはなりたくない。主体性のあるカイヌイン(ダーヴェルの事実上の妻)になりたい」と思ったから、その時点で私はすでに「フェミニスト」だったと言える。
さて、90年代に援助交際をしていた一部の女子高生が、成人後にフェミニストや精神疾患患者になったのを、当事者たちが「女性として生きている時間を売るしか出来ないのに、その時間の価値が加齢と共に減少していき、女性としての自分の価値を若さや性にしか見出さない社会に疑問や苦しみを抱くようになった」結果だと指摘するツイッターユーザーさんがいた。もちろん、全ての元エンコー少女たちがそうではないだろう。口をぬぐって、何食わぬ顔で家庭に収まって「幸せ」に暮らしているしたたかな女性もいるハズだ。しかし、全ての女性がそのように「したたか」になる事は出来ない。
あるミソジニスト男性ツイッタラー(ネナベの可能性もゼロではないが)が「愛国心がならず者の最後の拠り所ならば、フェミニズムは『メンヘラ女』の最後の拠り所だ」と言っていた。なんて卑怯な物言いなんだろう? 以前見かけた腐女子批判ブログと同じく、自分が気に食わないものに対する武器として「精神障害者差別」を使うとは、実に不愉快だ。確かに、ネット上のフェミニストたちの中には、「ならず者の愛国心」に例えられるような粗暴な姿勢を取る人たちも少なくないが、そんな人たちを精神障害者に例えるのは、明らかに精神障害者に対する冒涜である。
やはり、インターネットの情報だけで「フェミニスト」という姿勢を取るのは色々と危なっかしい。男性たちをことごとく「クソオス」呼ばわりして「ならず者の愛国心」的な主張をする「ネトフェミ」は、同じフェミニストの目から見ても「クソフェミ」「アホフェミ」に見える。まずは、信頼性のある様々な書物を読んで勉強した方が良い。
【Jimi Hendrix - The Star Spangled Banner American Anthem Live at Woodstock 1969】
ジミ・ヘンドリックス曰く「愛国心を持つなら地球に持て、魂を国家に管理させるな」。