湯山玲子氏の『女装する女』(新潮新書)に、面白いエピソードがある。
あるテレビ局に勤務する女性プロデューサーは、芸能事務所ともめた時に交渉する際に、高級ブランドの品々をしっかりと身に着けて出向くという。なぜか?
もめ事の交渉とは、相手に弱みを見せると極めて不利だ。ましてや、このエピソードの主役は「女性の勤め人」である点がハンディキャップである。下手に泣き落としなんぞしても、ますます「無理ゲー」である。ちなみに「無理ゲー」とは、何らかの不利な状況を「攻略するのが無理なゲーム」になぞらえる若者言葉だが、その「無理ゲー」攻略のための装備として、頭から爪先まで高価で派手なブランドアイテムを身に着けて戦場に赴くのである。
件の女性プロデューサー曰く、この装備はヤクザの入れ墨のようなこけおどしとして有効であり、さらに、高級ホテルのラウンジを打ち合わせ場所に指定する事で、相手を気後れさせる効果を狙っているのだ。
なるほど、あっぱれな「名将」である。
しかし、問題の女性プロデューサー氏のエピソードとは逆方向の「武装(?)」で成功した人物がいる。中国春秋時代の斉の宰相晏嬰 は、身分の高さにそぐわない質素倹約の暮らしをしていた。現代の政治家だと、ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が「現代の晏嬰」である。この二人の質素倹約ぶりは、当人たちが男性だからこそ有効だったのではないかと思う。
女性の有力者が晏嬰やムヒカ氏のように質素倹約をアピールしても、「清廉潔白」よりもむしろ「ひ弱な」イメージが出来上がってしまう恐れがある。いわゆる「婚活」をする女性ならば、男性に対して(いや、同性婚が認められている国もあるが)質素倹約をアピールするのは有効だろう。しかし、「男勝りな」活躍をする必要がある立場の女性だと、対戦相手になめられてしまう恐れがある。相手を威圧するためにこそ、戦う女は「武装」するのだ。
インターネット上では、芸能人などの有名人でもないのに(要するに、単なる一般人なのに)自撮り写真を披露する女性たちが少なからずいる。ズバリ、彼女たちは「自分はブスではない」と思っているだろう。少しでも「ブス」の自覚がある人なら、まずは自撮り写真を披露するなんて事態はあり得ないだろう。それに、何らかの犯罪に巻き込まれる恐れがあるのだ。色々と危ない。
ある程度の容姿レベルの高さがある有名人ならば、その容姿を飯の種にする限りは、自撮り写真を披露するのは奇妙な事ではない。しかし、たかが一般人ごときがわざわざ自撮り写真を公表するのはなぜか? 中には、他のネット民に「そんな事ないよ、かわいいよ」と言わせるために、思い切ってカワイコぶった自撮り写真に「ブス過ぎてつらい」などのコメントを添えて披露する痛々しい人もいるようだ(当然、当人らを「ブス」呼ばわりするネット民がいるが、ツイッターだと自撮り写真投稿者自身がそいつらをすかさずブロックするようだ)。
とは言え、中には他のネットユーザーの自撮り写真を無断転載して使う者も少なからずいるようだ(例えば、いわゆるネカマなどだ)。そのような被害に遭わないためにも、自撮り写真披露はやめるべきだろう。
まあ、画像を加工して実際よりも美化(?)された場合も多分少なくない。やたらめったら目がデカい一般人女性画像を見かけたら、まずは加工を疑う。もちろん、撮影する顔の角度にもよるが、不自然極まりない顎の小ささと目の大きさで、二次元キャラクターを無理やり写実的に描いたかのような不気味さがある。
そう、今時の人たち(男女問わず)の美意識は、かなり二次元オタクに近づいている。そのせいか、昭和の時代のような正統派美人はさほど人気がない(そもそも正統派美人自体が少数派だから、当然見かける機会はめったにないが)。まさしく、悪貨は良貨を駆逐するのだ。ネット上で自撮り写真を披露する一般人女性たちは、美人なのか不美人なのかよく分からない上に、個性的なのか没個性的なのかよく分からない曖昧な顔をしている。そんな彼女たちとは違い、本物の「美人」である一般人女性は多分、軽々しく自撮り写真など披露しないのだろう。
それでふと思った。ネット上で自撮り写真を披露する一般人女性たちは、少しでも「美人」に近づきたいがゆえに「美人ごっこ」をしているのではなかろうか? 外見的ままごと遊び、それが「武装」としてのオシャレであり、自撮り写真の披露である。
【Madonna - Dress You Up】
存在するだけで、すでにドレスアップ。