私の継父は芸能人嫌いだった。絶縁して以来、もう何年も会っていないが、多分、今もなお芸能人嫌いだろう。かつて私は、継父の「芸能人ヘイト」を冷ややかにながめていた。
継父の芸能人嫌いの本質が何かは、私は結局は分からない。しかし、世の中には私の継父と同じく、芸能人を「蔑視」する人が少なくない。それは昔の「河原者」に対する蔑視の延長線上にあるが、同時に売れっ子芸能人の「名誉貴族」的な立ち位置に対する嫉妬心もある。
さて、あるブロガーさんは、歴史上の女性有名人の出自を推測する根拠の一つとして「その女性が人前で踊りなどの芸を披露する仕事をしていたか」を挙げていた。つまりは、昔の女性芸能人とは基本的に「身分の低い女性」だったのである。これで、呂不韋の愛人だった女性、すなわち「始皇帝の母親」が元々出自階層が低かったと推測出来る。
そこで問題になるのが、『新約聖書』の「ヘロディアの娘」、すなわち、いわゆるサロメである。れっきとした王女であるサロメ姫が宴会で舞を披露したのに何らかの「怪しさ」があるのは、それが洗礼者ヨハネの処刑のきっかけ(もしくは口実)だったからだけではない。れっきとした王侯貴族の女性が人前に出て舞を披露する事態自体が「異様」だったのだ。
(ギュスターヴ・モローの『ヘロデ王の前で踊るサロメ』は私のお気に入り)
そして、『旧約聖書』の「エステル記」に登場するワシュティ王妃が宴会で顔見せするのを拒んだのは多分、王妃である自分が身分が卑しい女性のように扱われてプライドを傷つけられたからではないかと、私は思う。近現代になってからの世界は「女性の社会進出」が重要事項になったが、それ以前の時代では「女性」とは「プライベートな」存在だったのだ。そして、授業中や仕事中に私語をする女性たちとは、自分が「社会的な」存在であるのを忘れて「プライベートな」気分を持ち込んでいるという時点で、「前近代的な女性」なのだ。
かつて私は、あるパチンコ屋で深夜の清掃の仕事をしていた。私以外のパートさんたちはいずれも既婚女性だったが、私はその人たちの私語の輪には加われなかった。私自身の人間不信やコミュニケーション能力の低さもあったが、くだらないオシャベリ自体が嫌いだったからでもある。
ある日、正社員の男性がオシャベリパートさんたちに注意をした。
「割り切って仕事をしなさい」
皮肉な事に、一番「割り切って」仕事をしていたのは、一番無能な私だった。しかし、肉体的にも精神的にもさんざん疲弊していた私は、昼夜双方の仕事をやめてしまった。
話を「踊り」に戻すが、世の中には「歌って踊る」芸能人を軽蔑する人が少なくない。例えば、ジャニーズ系やAKBファミリーやEXILEファミリーなどに対するバッシングがいい例だが、それらアンチの中には「バンド原理主義者」も少なからずいるだろう。しかし、私は思う。踊りながらでなくても、楽器を演奏しながらでなくても、歌を仕事にする事だけでも十分すごいじゃないか? それで、さらに踊ったり、演奏したりしながら歌うなんて、普通の人にはまず出来ないでしょ? 何も出来ない一般人が安易に芸能人を「蔑視」するんじゃないよ!
ちなみに、今は亡き上原美優さんは生前、「貧乏人は芸能人になれないと思っていた」と発言していた。私はそれを一種のカマトトだと思っていたが、上原さん自身の生育環境からして、どうやら本気でそう信じていたのだろう。
しかし、上原さんにはグラビアアイドルとして通用するだけの愛らしい容姿という取り柄があった。それに対して、あのビッグダディ一家と元妻たちが何の取り柄もないのに「名誉芸能人」を気取っていたのには、さすがの私も不愉快だった。まあ、一番悪いのは貧乏大家族番組を一種の「動物番組」として制作して放送するテレビ業界だけどね。ああいったえげつない番組も少子化の要因でしょ?
【Perfume - ナチュラルに恋して】
ピンクレディー世代のおばちゃんにとっては、Perfumeの皆さんの振り付けは難し過ぎます。