猫の救い ―劇団四季ミュージカル『キャッツ』―

 この画像の人形は、私の小説『恋愛栽培』に登場するキャラクター〈ブライトムーン(Brightmoon)〉である。この姿を見た方々の中には既視感を覚えた人もいるかもしれない。そう、彼女のイメージには元ネタがあるのだ。 


 1997年、私の弟は当時付き合っていた女性と一緒に、劇団四季のミュージカル『キャッツ』を観に行った。そして、私はお土産としてパンフレットをもらった。

 歌って踊って輝く猫たち。私のブライトムーンとは、猫の耳や尻尾こそはないものの、このイメージから生まれた。しかし、私自身は実際に舞台を観られなかった。

 プログラムを読むだけで涙がにじんだ。それだけで感動して泣けるのならば、実際に舞台を観たら号泣してしまうのではないのか? しかし、私はその機会を得るのに18年もかかった。


 そして、2015年7月1日、私はついにローソンで『キャッツ』の前売り券を買った。7月4日の夕方スタートの回だ。前の日は病院に通う日だし、次の日はレイシスト連中が劇場の近くに集まる予定らしいから、この日を選ぶ必要があったのだ。 

 当日、私は早めに家を出た。時間つぶしに本屋に寄り、マクドナルドでフィレオフィッシュを食べ、中央バスターミナルで本を読んだ。バッグには、ミュージカルの原作となった詩集があった。『荒地』の詩人T.S.エリオットの詩集『キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法』(ちくま文庫)である。色々な名を持つ個性的な猫たちが登場する詩集だ。中には、犬のギャング同士の抗争ににらみをきかせて退散させる任侠猫(?)もいる。しかし、最重要キャラクターはこの詩集にはいない。

 ヒロインの「老娼婦猫」グリザベラは、エリオットの未発表の詩から「発見」された。エリオット夫人の証言によると、グリザベラの詩は「子供にとってはあまりにも悲し過ぎる」という事で、詩集には収録されなかった。この詩集は、エリオットが勤めていた出版社の社員の子供たちのために書かれたらしい。


 このヒロインの導入によって、ミュージカルは完成した。


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 開演時間が近づき、私は北海道四季劇場に入った。そして席につき、エリオットの詩集を読みながら開演を待った。 

 舞台美術は、昔のロンドンの下町をイメージしたのであろう作りだ。様々なガラクタが集まって出来上がっている。その中に、『水曜どうでしょう』のテレビ局HTBのマスコットキャラクター「onちゃん」の顔が描かれたオブジェがあった。終演後に買ったプログラムを見ると、道内テレビ局5局とFM北海道がスポンサーになっている。

 もうすぐ開演、というところで、猫役の役者さんが意外なところから顔を出した。そして、徐々に猫たちが現れ、舞台は始まった。

 引き締まった身体で歌って踊って飛び跳ねる猫たち。ミュージカル俳優とは、こんなにスゴいのか! そういえば、某大物芸能人は大のミュージカル嫌いらしいが、劇団四季クラスのミュージカルでさえもダメなのかな? 

 圧倒的な演技に私は涙がにじんだが、「グリザベラはいつ出てくるのだろう?」と気になっていた。そして登場するグリザベラ。しかし、彼女は他の猫たちに避けられる。

 途中で劇中劇などで気合の入った殺陣が披露されるが、「海賊猫」グロウルタイガーが意外な形で登場したのには驚いた。そして、二度目の殺陣で急展開。さて、どうなる!? 


 そして、「長老猫」オールド・デュトロノミーが現れる。彼こそが、あの彼女に救いの手を差し伸べるのだ。


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 グリザベラは「元娼婦」という定説のある聖女マグダラのマリアがモデルの一人のようだ(ただし、マリアが元娼婦だというのは、「始皇帝の実の父親は呂不韋だ」という話と同じく疑わしい)。そして、そんな彼女に救いの手を差し伸べるオールド・デュトロノミーとは、大いなる父性の体現者である。これはまさしくキリスト教的な「救い」の物語である。 

 仮にこれが異教/多神教的な物語であれば、罪深い雄猫が大地母神的な威厳と愛情を体現する雌猫に救われるという物語になっていたかもしれない。しかし、いかにも「異教的」な動物である猫にキリスト教的な「救済」が結びつくとは面白い(このミュージカルの世界では、「母性原理」は庶民的なおばさん猫のジェニエニドッツとして表される)。 


 生まれて初めて観たミュージカル、素晴らしい! こんな事を言うのは大げさだが、「生きてて良かった」と思うくらいである。少なくとも私は、初めて観たミュージカルが日本最高峰レベルのものだったので、某大物芸能人のように「ミュージカル」という表現方法そのものを嫌えない。

【Memory (Reprise) | Cats the Musical】