ツイッターで、ある人たちがこう言っていた。
《男は「根回し」「融通」「妥協」とかってのを大切にするから、サラリーマンに向いてるけど、女の仕事できる奴って、無駄に「正義感」「頑固一徹」だったりする。女って中間管理職は向かないけど、経営者には向いてるとおもう時がある。》
《むしろ「なぜ女性映画監督の”打率”が高いのか」って議論があって「性差別が根強い映画界で女性が監督になり監督であり続けるには半端なく突出した才能が必要だから。つまり女性監督による”駄作”が普通に作られる状況になってこそ差別が解消されたと言えるのでは」という分析がされてたくらいなのになあ》
要するに、フェミニズムというものは、ある程度優秀・有能な「強者女性」を基準にした思想であり、知的障害者や貧困層なども含めた「弱者女性」は「フェミニズム以前の問題」という立場に置かれてしまう。そもそも「強者女性」自体が、他の女性たちを踏み台にして成り上がった人たちであり、「男」か自分と互角かそれ以上の「女」しか「仮想敵」だと想定しない。おそらくは、一部の「自称フェミニスト」の女性たちは、トランスジェンダー当事者たち(特にトランス女性)に対して「新たな敵が現れた」と思って警戒した結果、トランスヘイターと化してしまったのだろう。たいていの差別は利害得失の問題である。
しかし、山本譲司氏の著書『累犯障害者』(新潮文庫)で取り上げられているような知的障害者の「弱者女性」たちは、そのような「自称フェミニスト」からもまともに「敵」扱いはされない。要するに、単なる差別対象・蔑視対象としての「弱者」でしかないのだ。同じ事は、貧困層に属する女性たちにも言える。テレビでたまに取り上げられている「貧乏大家族」の女性たちに対する扱いが一例だし、今は亡きグラビアアイドルの上原美優氏だって、貧乏大家族の娘というだけの理由で「日本版サラ・バートマン」として「見世物」扱いされていたのだ。
斎藤美奈子氏の『モダンガール論』(文春文庫)は、明治以降の日本国内の女性史を扱うものである。この本では「欲望史観」という目線で、近現代の日本国内の女性たちの社会的立ち位置について論じる本である。この本では「女の子・女性」の出世の道として「社長」と「社長夫人」という二つの選択肢がある。競走馬で例えるならば、三冠牝馬ジェンティルドンナは「社長」であり、ステイゴールドの「正妻」オリエンタルアートは「社長夫人」である。何らかのフィクションの登場人物で例えるなら、「自らが主人公であるヒロイン」と「男性主人公のパートナー(主に異性愛の対象)としてのヒロイン」の違いがあるのだ。
しかし、「社長」にも「社長夫人」にもなれない「弱者女性」たちは、まともに「社会人としての女性」とは見なされない。斎藤氏の本における「女工」や「女中」にもなれないような障害者女性や「ギリギリ健常者」女性については、ほぼ取り上げられていない(前述の山本譲司氏の著書にもあるように、性産業界に取り込まれる事はあっても、健常者女性の場合以上に「使い捨て」扱いされていただろう事は容易に想像出来る)。まあ、斎藤氏はあえてそこまでは追及しなかったのだろう。
私は保育園卒園前に、担任の先生から「将来、何になりたいの?」と訊かれて「お嫁さん」と答えた。なぜなら、当時の私は「女性の職業」についての知識がほとんどなかったからなのである。当時保険外交員として働いていた(私の実父である夫と死別した)母と、保育園の先生、さらには病院の女性看護師以外には、幼い私は「働く女」のイメージをほぼ持っていなかった。しかし、小学校入学後、学校内で私自身の「自閉症疑惑」が噂になったのか、私は主に男子クラスメイトたちに「バイキン」扱いされていじめられるようになった。さらに、母親の再婚によって、結婚というものの実態を知り、私の結婚願望はなくなった。いや、本質的には最初からなかったのだ。
なぜなら、幼い私の「お嫁さん」願望とは、ただ単に「ウェディングドレスを着たい」というコスプレ願望に過ぎなかったからなのだ。まだ小学生のうちに結婚願望を持たなくなった私は、代わりに「漫画家になりたい」と思うようになった。それは「漫画の女神様」高橋留美子氏の存在を知ったのが理由の一つだろう。もちろん、少女漫画界で活躍している女性漫画家たちもいるが、私は子供の頃から少女漫画よりも少年漫画の方を好んでいた。それゆえに、私は「恋愛体質」的な価値観を苦手とするようになったのだ。
私にとって、高橋留美子氏のような優秀・有能な女性漫画家とは、まさしく「モダンガール」だったのだ。「男の七光り」には頼らない自立した女性像、それが高橋留美子氏などの女性漫画家たちのイメージである。しかし、私は結局はプロの漫画家並びにイラストレーターになる夢を捨てざるを得なかった。もちろん、自分自身の才能のなさを認めざるを得ない状況でもあったが、さらに、プロの漫画家やイラストレーターの苦労話を知ってあきらめたからでもある。
斎藤氏の本では、様々な女性たちが「仕事」や「職業」や「社会人」「主婦」などの立場によって右往左往しているのが描かれているが、それは女性たちそれぞれの個人的資質だけの問題ではない。彼女たちが属する社会的階層の問題も大きい。平塚らいてうや与謝野晶子などの「強者女性」フェミニストたちが「母性保護論争」などを展開しても、それらを他人事としか思えなかった女性たちだって、きっといただろう。なぜなら、平塚氏や与謝野氏は明らかに「上級国民」ならぬ「上級女性」であり、当時の日本人女性たちの大半から見れば「雲の上」の存在だったからである。ましてや、障害者女性にとっては。
この本では貧困層の「社会学的弱者女性」たちが取り上げられているが、知的障害者などの「生物学的弱者女性」はほぼ取り上げられていない。「良妻賢母」も「キャリアウーマン」も「女子大生」も、優生思想あってこそ成り立つ概念だろう。結局は「フェミニズム」というものが基本的に健常者の「強者女性」を基準にして成り立つものであり、平塚らいてうと与謝野晶子の「プロレス」を観戦する余裕なんぞ、障害者や貧困層などの「弱者女性」にはないのだ。
【Sheena Easton - Modern Girl】