詩人兼社会学者の 水無田気流 氏の本『無頼化した女たち』(亜紀書房)は、洋泉社新書として発行された同氏の『無頼化する女たち』の加筆修正版である。これは現代の日本国内の女性たち(いわゆる「日本人女性」だけに限らない)の「無頼化」「やさぐれ化」について書かれたものである。そして、「女女格差」について「ちゃんと」書いてある本である。しかし、それでも知的障害者を含めた「The 弱者女性」についての記述は明確にはない。そして、現代の日本国内の女性たちの状況を語るには、障害者や性的マイノリティーや人種民族的マイノリティーも含めた「弱者女性」についても忘れてはいけない。
この本では、様々な著述家たちによる現代日本の女性論が引用されているが、山本譲司氏の『累犯障害者』(新潮文庫)で取り上げられているような知的障害者女性たちはその「土俵」にすら立てない。結局は『無頼化する女たち』並びに『無頼化した女たち』はあくまでも、シスジェンダーで異性愛者の定型発達健常者女性を基準にしたものである。そもそも、大学院卒の知識人である水無田氏自身が「凡庸」なら、田舎の高卒フリーターだった私なんて、まさに「凡庸未満」じゃないか?
深澤真紀氏の『日本の女は、100年たっても面白い。』(KKベストセラーズ)と同じく、この本でも勝間和代氏についての言及があるが、勝間氏はまさに「強者女性」の代表例である。そして、いわゆる「東電OL殺人事件」の被害者はまさに「勝間和代になれなかった人」である。皮肉な事に、東電OL某氏は山本氏の『累犯障害者』で取り上げられている知的障害者女性たちと同じ「土俵」に立ってしまった女性である。東電OL某氏は男性的な「出世街道」では満たされない「女心」を満たすためにこそ、あえて「売春婦」になったのではないかと、私は思う。彼女は『累犯障害者』の知的障害者女性たちと同様に「恋愛の代用」として売春をしていたのだろう。
あるブロガーさんは世間一般における「性別二元論」の実体は実は「性別一元論」ではないかと疑問を挙げていた。つまりは、この世は「男性」を「一元」とする社会構造であり、「女性」は「男性」と対等な別の「一元」ですらないというのだ。要するに、「女性」はゾロアスター教における悪神アーリマンですらない存在でしかないのだ。それゆえに、前述の『累犯障害者』の知的障害者女性たちはさらに「見えないもの」扱いされてしまうのだ。それゆえに「女女格差」はフェミニストたちにすら無視されてしまう。
女性の生き方について語るのに「男性の恋人・配偶者」が重要事項とされるのは、いわば「強制的 異性愛主義 」であるが、これは性的マイノリティーの女性たちに対する無視であると同時に、障害者女性などの「健康弱者」「身体弱者」に対する無視でもある。さらに、シスジェンダーで異性愛者の定型発達健常者女性全体に対する「悪平等」でもある。世間の女性たちに対する「再生産」の強制ゆえに、世界は人口爆発に苦しめられた。しかし、日本国内における「少子化問題」とは、そんな世界情勢に対する露骨な無視である。
女性は男性以上に「安心」「安全」「安定」に対する執着心が強いが、それは社会環境要因ゆえに自己防衛意識が強いからである。そして、女性の貞操観念とはいわば「優生思想」の美化であり、「子ガチャでハズレを引く」事態に対する恐れである。そんな矛盾だらけの冥府魔道を歩むがゆえに、現代日本の女性たちは「無頼化した」のである。そう、現代日本の女性たちは「戦国時代」を生きているのだ。
もちろん、女性たちそれぞれの「階層」や「属性」の違いの問題は大きい。シスジェンダーで異性愛者の定型発達健常者女性だけでも、千差万別だ。いわゆる「女の敵は女」という言葉にも当然限度がある。全ての女性たちが平等・対等な「敵」同士になれるのではない。『地獄の黙示録』ならぬ「地獄の戦国策」の世界に、女性たちは生きているのだ。
ある時は「ゆるふわ」の仮面をかぶり、またある時は「ビッチ」の仮面をかぶり、さらに「良妻賢母」や「美魔女」などの仮面をかぶる。まるで中国・戦国時代の説客たちのように、女性たちは様々な 仮面 をかぶり、世渡りをせざるを得ないのだ。
【Christina Aguilera, Lil' Kim, Mya, P!nk - Lady Marmalade】