私は1980年代に子供時代並びに青春時代を過ごした。その1980年代に、私はお笑い番組『オレたちひょうきん族』を観ていた。そのエンディング曲、山下達郎『土曜日の恋人』やEPO『ダウンタウン』並びに『土曜の夜はパラダイス』は名曲だが、かつての日本の土曜日は「半ドン」、すなわち仕事や学校の授業の短さによる午後の楽しみがあった。そう、土曜の夜は「パラダイス」だった。それを連想させる題名を持つ一冊の本がある。精神科医の斎藤環氏の著書『世界が土曜の夜の夢なら』(角川文庫)という、実にロマンティックな題名の本である。
私は当記事の執筆のためにこの本を再読したが、以前読んだ際に齋藤孝氏の「3色ボールペン」方式チェックをしていたので、再読するのが楽になった。今回はさらに傍線を引いていったが、私はそれに対して他の著述家たちの本の記述や自分自身の過去の体験などを思い出した。私はあえて、粗削りなメモをこの本の感想文として投稿する。
斎藤氏はヤンキーの現実主義を指摘する。確かに、ヤンキーは良くも悪くも「現実主義」だ。私が思うに、ヤンキー気質の人たちは「情に厚い」という美点があるが、その反面「想像力が貧しい」という難点もある。それは、私が昔読んだ某雑誌にあった一般人ヤンキー女性のインタビューでの発言を思い出させる。他の女性たちが「セックスが嫌い」と言うのに対して、彼女は「本当はみんな好きなくせに」と決めつける。さらに、ゲイのヤンキーカップルのインタビューもあった。ゲイのヤンキーは、非ヤンキーのゲイ男性以上のマイノリティーである。ヤンキーは「強制的異性愛主義」との親和性が強い。
本来の英単語としての「ヤンキー」についてのウィキペディアでの定義は、次の通りである。
《元々は、コネチカット州に住むイギリス系移民が、南西隣のニューアムステルダム(後のニューヨーク)に住むオランダ系移民を呼んだあだ名、Jan Kees(ヤン・キース)に由来するという説と、その逆という説がある。Jan Kees(ヤン・キース)を英語に直訳すると「John Cheese」(ジョン・チーズ)になるが、イギリス系移民は "Kees" の "-s" を複数形と誤解し、英語においては "Yankee" を単数形、"Yankees" を複数形とした。ただし、これ以外にもヤンキーの由来や語源は諸説あり、はっきりと断定できない(インディアン語での「卑怯者」など)。》
斎藤氏のこの本には、コラムニストのナンシー関氏や酒井順子氏など著述家たちのヤンキー論について取り上げられている。日本人並びに日本社会における「ヤンキー的な美学」はアメリカ大衆文化の日本社会に対する影響力の強さがあり、バイクや車という乗り物はアメリカ社会の象徴である。そのアメリカの国花は「カーネーション(car−nation)」だというダジャレを思い出させる。
ジェーン&マイケル・スターン夫妻の著書『悪趣味百科』(新潮社)はアメリカ大衆文化の様々な物事や人物を扱うが、それらは現代日本大衆文化と密接な関係にある。漫画の神様手塚治虫氏に対するディズニーの影響力。一見対照的な「オタク」と「ヤンキー」は、むしろコインの裏表の関係性である。マクベスの魔女ではないが、同じは違う、違うは同じなのだ。それは他人は自分、自分は他人であるようにだ。
私は戦国時代の三英傑(すなわち、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)を表す落首をもじった。
《オタクがつき ヤンキーがこねし天下餅 座りしままに 食うはミーハー》
すなわち、オタクやヤンキーが切り開いた道を闊歩する「ミーハー」たち、すなわち「一般人」たちである。1980年代の日本は「ミーハー」の時代だった。そんな「ミーハー」たちが「オタク」や「ヤンキー」を「コンテンツ」として消費する。そのように「コンテンツ」として消費される「ヤンキー系」芸能人たちとして、矢沢永吉などのロックミュージシャンたち、浜崎あゆみ、木村拓哉&工藤静香夫妻などがいる。そんな彼らと比べれば、かつての尾崎豊は「ヤンキー的」ではない。彼はむしろ「概念としての不良」に憧れる文学青年のイメージだと、私は思う。
擬人化すれば「男」であるアメリカからの「女」日本への影響がある。それはいわゆる「レイプ被害」になぞらえられるが、斎藤氏はそれに対して疑問を呈する。「女性としての日本には二つの自己/事故が生じた」。アメリカを憎む内的自己と、「自分から求めた」と思い込む外的自己。「男」として擬人化されたアメリカ社会におけるスクールカーストの頂点の象徴、すなわち「ジョック」。女性として擬人化された「日本」は自らを「クイーンビー」だと思い込むが、それゆえに、「女の敵は女」の理屈で中国や韓国などの東アジア諸国を憎む。そして、例外として台湾に対しては「フェミニスト」を演じる「性悪女」としての日本。その姿勢は、統合失調症患者よりもむしろ、解離性同一性障害の患者として擬人化出来るのかもしれない。
女性として擬人化された日本にとっての「開国」。斎藤氏曰く、接触は近過ぎれば単に飲み込まれるし、遠過ぎれば本質的な変容は起こらない。「日本という名の女」が持つ保守的な「深層」という素顔と、流動的な「表層」という化粧並びに服装。《士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者のために 容 づくる》。いや、むしろ「女は己の悦びのために容づくる」のだ。アメリカという「後宮」の女主人として、擬人化された「女」としての「日本」は、韓非子の言う「君主の妻/母」になった。
斎藤氏はジャック・ラカンの理論を支持するが、カミール・パーリア氏はラカンらフランスの知識人たちをボロクソにけなしたので、パーリア氏は斎藤氏の理論を全面否定する可能性が高い。そんなパーリア氏は他のフェミニストたちの「女の嫉妬」を他者化するが、彼女自身は若い頃から「ブロンド美人」に対する根深い嫉妬心や劣等感があり、それゆえにテイラー・スウィフト氏を「ナチスのバービー人形」扱いした。まさしく『春秋左氏伝』のダークヒロイン「叔向の母」の再来である。
アメリカという概念に「犯される」=「普遍性に犯される」。アメリカという国家は基本的にプロテスタントの信仰によって建国されたが、カトリック教徒の移民の子孫も多い。頭文字を大文字にしない本来の「catholic」という形容詞は「普遍的」を意味する。そして、プロテスタントよりもカトリックの方が、日本社会の「ヤンキー性」並びに「マザコン志向」との親和性が高いかもしれない。東洋の聖母マリアとしての女神アマテラス。彼女はアルテミスと同じ処女神であり、アルテミス崇拝は聖母崇拝に対して少なからぬ影響を及ぼした。
斎藤氏は日本に対するアメリカという国を「母なるアメリカ」と表現する。そんな日本もアメリカも、擬人化された国家としては「女神」「大地母神」である。ちなみに「チャイナ」は「秦」の女性形だが、秦という国家並びに国号には女神信仰的な意味合いはない(中華圏はかなり古くから家父長制的な文明を築いてきた)。それでは、なぜ「ジャパン」は中性的・無性的な英語名なのだろうか? 異文化に「犯されて」新たな何かを生み出す大地母神としての日本。そこに、「ヤンキーの女性性」があるのだ。
作家の赤坂真理氏は「ヤンキーは女性的」だと評した。それゆえに、ヤンキーは「男装の女神」アテナやアマテラス(やアルテミス)に通じる。アテナやアマテラスは聖母マリアと同じく「処女母」である。ヤンキーは「関係性」を重視するのが女性的だが、アテナやアマテラス(やアルテミス)はむしろ「孤独な女」のイメージがある。「男社会」における「名誉男性」である「女」として擬人化される「日本」が、他の東アジア諸国を「特定アジア」呼ばわりして蔑視するのは、「ネトウヨ」的であると同時に「ツイフェミ」的もしくは「トランスヘイター」的な姿勢でもある。
私は以前、数学者の藤原正彦氏の『国家の品格』を読んだが、私は藤原氏の主張する「論理より情緒」に対して嫌悪感を覚えた。良くも悪くも「ヤンキー」的。私自身は、日本人としては「血中ヤンキー濃度」が低いようだ。斎藤氏は橋下徹氏の「ヤンキー性」を指摘する。私は橋下氏が嫌いだが、その橋下氏の「ヤンキー性」に惹かれた人たちは少なくなかった。
斎藤氏の本にある「無垢で純真なアメリカ」とは、ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』のヒロイン「ドロレス・ヘイズ」として擬人化されている。それに対して、「汚い紫の上」ドロレスを性的搾取する「汚い光源氏」ハンバート・ハンバートは「退廃的なヨーロッパ」の「尻尾」「切れっ端」である。
父性を否定し、母性に執着する「日本」は、男神スサノオとしても擬人化出来る。両性具有の国家としての日本とアメリカ。カミール・パーリア氏は著書『性のペルソナ』(河出書房新社)で「豊穣宗教の至高の象徴は、男女両性をそなえた原初の力としての大地母である」としている。オタク文化における異性愛男性向けポルノコンテンツで描写される「ふたなり」とは、そのような大地母神の凋落した成れの果てかもしれない。パーリア氏は日本のオタク文化を批判したらしいが、おそらくは日本文化のアメリカ文化に対する「簒奪」を批判したのだろう。
斎藤氏曰く、アメリカとヤンキーの関係性は「母と娘」のようである。規範よりも身体性。しかし、アマテラスは「母」イザナミではなく「父」イザナギから生まれた。すなわち、ギリシャ神話のアテナと同じく「女から生まれなかった者」であり、それゆえに彼女たちはマクベスを殺せるだろう。そんな「異教の女神」たちのパロディーとして、ミルトンの『失楽園』に登場するサタンの娘「罪」は生み出されたのだろう。ゼウスがメティスを吸収したように、イザナギはイザナミを吸収してアマテラスを産んだのかもしれない。彼は自らの意志とは無関係に神々を生み出してしまう。ジョージ・ゴードン・バイロンの戯曲『マンフレッド』の主人公マンフレッドは、姉アスターティ(フェニキアの女神の名前を持つ女性)の亡霊に取り憑かれている。バイロンと異母姉オーガスタ・リーの関係性は、アマテラスとスサノオ(もしくはイザナミとイザナギ)のパロディーのようだ。
ヤンキー的リアリズムは基本的に仮想現実と相容れない。それゆえに、「オタク」と「ヤンキー」は対照的だと見なされる。理論など無用の長物でしかないなら、本田透氏の著書『電波男』に同調するヤンキーは少数派だろう。ヤンキーの「哲学」は「凡庸なまでに世俗的」だが、だからこそ「一般人」たちはヤンキーたちに感情移入出来るのだ。
前述の赤坂真理氏はヤンキーの「女性性」を指摘したが、それは女性そのものと同じく、リアリストとロマンティストの両面をしばしば合わせ持つ。アテナの鎧に、アフロディーテの衣。世俗的な夢を語る「女神の鬼」としてのヤンキーたち。私は田中宏氏のヤンキー漫画『女神の鬼』を読んでいないが、斎藤氏のヤンキー論を読んで「女神」と「鬼」という単語の組み合わせに納得した。権力の介入を嫌うヤンキーたちとは、いわばスサノオの精神的な子孫たちなのである。そんなヤンキーたちの祭りは(前述の『女神の鬼』とは無関係に)「土曜の夜」に行われる。「土曜の夜」とは、前述の昭和時代の「半ドン」として、学校や職場の外を象徴する。
日本のヤンキーには個人主義が欠如しているが、それは儒教思想に由来する可能性が高い。儒教思想といえば「長幼の序」「男女の別」だが、ヤンキーはこの辺においては極めて保守的である。それゆえに、非ヤンキーかつ「マジョリティー」の一般人にとって感情移入しやすいのかもしれない。そして、ヤンキーが重視する「絆」は本来、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱を意味した。それゆえに、中国人は日本語としての「絆」に対して嫌悪感を抱くらしい(ちなみに、日本の競走馬キズナの中国語名は「高情厚意」である)。
斎藤氏曰く、母性的暴力は常に相手と「関係」するために振るわれる。いわゆる「毒親」で話題になるのは、父親よりも母親である事が多い(父性の透明化だ)。世界各地の様々な神話や伝説で語られる「歯のある膣(ヴァギナ・デンタータ)」は、母性の暗黒面を象徴するイメージであり、男性にとっては「去勢」に対する不安である。そう、首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗受刑者はいわば、そのような「暗黒の大地母神」のイメージの人物であり、それゆえにフェミニストの同性たちの興味を引いた。
斎藤氏曰く《支配はしばしば「献身」や「奉仕」という形式でなされる》。それは木嶋佳苗受刑者の手口にも言えるし、いわゆるSMにも言える。ある人曰く、「SはサービスのS、MはマグロのM」。私はYahoo知恵袋で「マグロ」的な質問者たちを何人も見かけたが、彼らは別に「正論」も「正解」も求めていなかっただろうし、ましてや「関係性」など求めていなかっただろう。それは、男性の「性」が「排泄」のイメージであり、女性の「性」が「飲食」のイメージであるのを連想させる。女性にとってレイプが「魂の殺人」であるのは、それが自分にとって危険な「毒」や汚らわしい「排泄物」の飲食を強制されるのに等しいからである。
ヤンキー文化の女性性で私も斎藤氏も連想したのが、少女漫画の絵柄でヤクザ漫画を描く立原あゆみ氏である。男性漫画家立原あゆみ氏は現在は青年漫画界でヤクザ漫画を執筆しているが、かつては少女漫画家だった。その少女漫画家時代の立原氏は『すーぱー・アスパラガス』という漫画を描いたが、それは主人公らが謎のアスパラガスを食べて女体化する内容だった。この漫画が後のヤクザ漫画とどうつながるのかは、私は知らない。
しかし、立原あゆみ氏の漫画が「ヤンキーの女性性」を示すのは間違いなかろう。ヤンキーの「ポエム好き」を示すものとして、少女漫画的な手法があるのかもしれない。それはいわゆる「ケータイ小説」にも言えるが、「ケータイ小説」は後に『小説家になろう』などの小説投稿サイトへとつながっていく。現在の漫画は画力の高さが昔以上に求められているので、代わりに小説家を目指す一般人たちが増えたのかもしれない。私自身、『鋼の錬金術師』の作者荒川弘氏という傑物の存在によって、子供時代から抱いていた「漫画家になりたい」という夢をあっさりと捨て、現在は趣味として小説やエッセイを書いている。
斎藤氏は最後に『古事記』を引用するが、言わずと知れたスサノオがヤンキーの典型例であるのを示すためである。その『古事記』における時間は「今」が連続し、終わりというものがない。いわゆる「終末思想」は仏教のものも含めて外来のものだった。多分、終末思想こそが日本人の悪い面(例えば、排他性や利己主義、刹那主義など)にさらに拍車をかけたのだ。末法の世。三国志の日本における人気の理由の一つとして、現在の日本社会が西晋に似ているからという可能性もあり得る。
フェイクとしての伝統性。かつての「オタクミーハー雑誌」ファンロードの読者投稿記事における様式美。ヤンキー文化もオタク文化も「様式美」があるが、演歌やヘヴィメタルといった音楽ジャンルも「様式美」を売り物にしている。小林幸子氏は「演歌=ファンタジー」だと割り切って音楽活動をしているだろうと、私は思う。彼女は他の演歌歌手と比べて、オタク文化やヤンキー文化などの若者文化との親和性が高い。ボカロ曲『千本桜』のカバーは、ロックバンド〈和楽器バンド〉もしているが、こちらもまさに、ヤンキー文化と同じく「和洋折衷」である。
コピー自体がオリジナルになる。中国では、本来『水滸伝』の二次創作である『金瓶梅』が本家と並んで「中国四大奇書」として扱われている。オタク文化もヤンキー文化も、演歌やヘヴィメタルと同じく「様式美」を尊重する。その一端として、オタクたちは様々なコンテンツからの「引用のコラージュ」によって自分の意見を代弁させる。それに対して、ギャル言葉は「新しさやオリジナリティにおいて勝る」と斎藤氏は指摘するが、どちらも「若者言葉」並びに「流行語」としての「型」がある点は同じである。
斎藤氏は天皇制がはらむ「空虚さ」を指摘する。その「空虚さ」を象徴するのが、静謐なる処女母神アマテラスである。そんな彼女の子孫である日本の天皇たちは「男系男子」であってもなお、「母性的」な権威(男装した女神)であり、それゆえに「易姓革命」は起こらなかった。日本国外においては、一神教の普及以前の時代においては「男王」は「女神」の「夫」であり、消耗品だった。それに対して、母なる大地としての「女神」は不変にして普遍である。結論として、ヤンキーたちは母なる大地である「女神」の子孫である「鬼」たちなのだ。中国語の「鬼」は幽霊を意味するが、日本語の「鬼」は元々「隠れたもの」を意味していたという。