私は上野千鶴子氏の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店)について、まずは揚げ足取りをする。「ミソジニーは男にとっては『女性蔑視』、女にとっては『自己嫌悪』」とは、まさに「落馬とは馬から落馬する事である」もしくは「頭の頭痛が痛い」のような表現である。正しくは「ミソジニーは男にとっては自分にとって異質な相手に対する『他者蔑視』、女にとっては自己嫌悪の延長としての『同族嫌悪』」である。ミソジニーという単語自体が「女性蔑視」並びに「女性嫌悪」の意味ならば、「ミソジニーは男にとっては『女性蔑視』」とは、まさに「頭の頭痛が痛い」ような物言いなのだ。
そして、ミソジニーの「本家本元」は男性ではなく女性のそれなのだ。少なくとも私は、いわゆる「女の敵は女」という言葉を「男社会」が作ったフィクションだと決めつける「自称フェミニスト」を信用しない。世間一般における「女女格差」を無視・否定する「自称フェミニスト」なんて、あたしゃ信じない。少なくとも、「弱者女性」を自認する人ほど「女の敵は女」という言葉に対して真実味を認めるだろう。それこそ「男女差別」以前の問題である。山本譲司氏の著書『累犯障害者』(新潮文庫)で取り上げられている知的障害者女性たちは、まさに存在自体が「フェミニズムの限界」そのものである。
ある女性文化人は「知的な人間は皆フェミニストなのだ」と言っていたらしいが、私はこれを傲慢な発言だと思う。なぜならこの言葉は、知的障害者や低学歴者・無学歴者なども含めた「教育・教養弱者」に対する差別になってしまうからである。そして、フェミニズムという思想自体が、知的レベルが高い「強者女性」を基準にした「椅子取りゲーム」であり、山本氏の著書で取り上げられている知的障害者女性たちは、最初からこのゲームに参加する権利を認められていない。そして、「強者女性」フェミニストたちは、彼女たちのような「弱者女性」たちの死屍累々の上で自らの地位を得ているのだ。当然、上野氏もその一人である。
某SNSに次のような言葉が投稿されていた。
《『私より可愛い女消えて欲しい』という歌詞を聞いて、もしその結果世界に自分以外女が全部消えたらかなり病みそうだなと思った》
これには色々な意味が含まれる。一つは「実は自分が一番『ブス』な女だった」と知って愕然とするという事態だが、もう一つは「自分にとって味方になり得る同性がいなくなる」という事態に対する恐れである。いわゆる「女の敵は女」とは言うものの、同時に「女の味方は女」でもあるのだ。そうでなければ「フェミニズム」並びに「フェミニスト」は成り立たない。自分以外の同性がいなくなっても全然平気そうな女性なんて、首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗受刑者などのほんの一握りしかいないだろう。
男性は女性を「聖女」と「娼婦」に分けたがると、上野氏やその他フェミニズム系知識人たちは定義するが、それに対して、女性の男性に対する分類はもっと身も蓋もない。ズバリ「王子様」と「クソオス」、すなわち「有益な資源」と「有害なゴミ」である。「聖女」と「娼婦」は共に、暗に「美女」であるのが大前提とされているイメージだが、女性の男性に対する分別方法はあくまでも「現実的」であり、「聖女」対「娼婦」のようないかがわしいロマンティシズムとは対照的である。それゆえに、「美女と野獣」カップルが「意外と」多いのに対して、その男女逆転版は「案の定」少ない。
(ただし、アーサー王伝説のグィネヴィア王妃にとっての「正夫」アーサー王と「愛人」ランスロットのような分類も、あるにはある。仮にオスの競走馬を擬人化するなら、ディープインパクトは「正夫」キャラで、ハーツクライは「愛人」キャラだろう)
さらに、某SNSに次のような言葉があった。
《男社会は女が描いた方が面白い(山崎豊子、柚月裕子など)し、女社会は男が描いた方が面白いなって。客観性が保たれて良いのかもしれない。》
フィクションではない本だと、前述の山本譲司氏の『累犯障害者』や経済学者の 橘木俊詔 氏の『女女格差』(東洋経済新報社)はまさに、その言葉通りの著書である。
上野氏の『女ぎらい』の前半は男性のミソジニーを扱うが、後半は女性のミソジニーを中心にした内容である。そう、ミソジニーとは男性ではなく女性の心理こそが「本家本元」なのだ。ある人曰く「女性に対してやたらと批判的な男性は女性的な気質ではないのか?」。確かに、自らの「男らしさ」に対して絶対的な自信があるような男性は、「女心」に対して良くも悪くも無頓着な印象がある。
某SNSで、ある女性が「上野千鶴子の女嫌いは異常」と非難していたが、私が思うに、むしろこの女性の発言こそが「カマトト」である。なぜなら、女性のミソジニーとは、自分と同類である同性に対する「同族嫌悪」「近親憎悪」だからであり、女性がそれに対して無自覚を装うのは偽善であり、欺瞞である。それに対して、木嶋佳苗受刑者は自らのミソジニーに対して「正直者」だったと、私は思う。男性も女性も、自分にとって同性である人間とは、何らかの利益をめぐって競う相手である。そして、女性の「トランスヘイター」とは、トランス女性に対して、自分の競合相手が「増えた」のを恐れているのだろう。
弱者女性にとって「フェミニズム」を知るのは、ブータンの若者が外国の先進的な文化を知るのに等しい。人魚姫が「足」を得て歩くような「苦労」を知る羽目になる。しかし、強者女性フェミニストたちは弱者女性フェミニストに対して「あなたたちの敵はあくまでも『男』だよ」と教えて、彼女らの怒りの矛先を自分ら強者女性の側から男性たちに向けさせる。そして、いわゆる「ツイフェミ」とは強者女性フェミニストたちの「紅衛兵」である。要するに、自民党政権やその他「保守系」政党にとってのネトウヨのような「鉄砲玉」であり、「狡兎死して走狗 烹 らる」存在でしかないのだ。
【薬師丸ひろ子 - Woman】