ケーキを奪い合う世界 ―宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』―

 私は宮口幸治氏の『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)を読んで思った。旧ツイッターなどで、いわゆる「ネトウヨ」すなわちインターネット上で暴れ回る「自称保守」並びに「自称愛国者」の排外主義者となっている人たちの中には、日本語を母語にしているのにも関わらず、やたらと日本語を間違える人たちがいるが、もしかするとこの本で取り上げられている「非行少年たち」と似たような事態の人たちもいるのかもしれない。それゆえに、ツイッターなどでネトウヨの人たちの「母語である日本語の使い方の問題点」を揶揄する「反差別」の人たちは、相手の差別意識を叩くための道具として別の差別を利用しているという「クレタ島の嘘つき」並びに「貼り紙禁止の貼り紙」状態になってしまっている。

 つまりは、「日本語が不自由な日本人ネトウヨ」に対する揶揄とは、低学歴者や知的障害者、並びに日本語を母語レベルで使えない外国人や社会的地位が低い人たち(貧困層や低職歴者など)に対する差別に通じる危険性がある。前述の通り、ある差別を批判するために別の差別をその道具にするのは、いわば鏡に向かって悪口を言うのに等しい。

 それはさておき、宮口氏の本で取り上げられている「境界知能」並びに「軽度知的障害」の人たちがケーキを3等分出来ないという事態とは、実際にケーキを3等分出来るかどうか以前の問題として、「等分」という概念を理解出来ないという状況なのである。そもそも、「等分」という概念を理解している健常者にとっても、ケーキなどの物体を「奇数回で」等分するのは「技術として」難しい。だからこそ、劉邦に仕える前の陳平が儀式用の肉を的確に切り分けた話がわざわざ歴史に残ったのだ。


 そこで私は思う。1970年代のIQ100と2020年代のIQ100とでは、本当に同程度の知能なのだろうか? 要するに、天気予報で言う「平年並み」のように徐々に変化していくものではなかろうか?


 いわゆるIQすなわち知能指数とは、優生思想と同じく、都会(特に先進国)のエリートの「発想」である。ある人曰く「人間は小学校中学年くらいの知能さえあれば、社会人として生きていける」らしいが、先進国(特に都会)では、それは通用しない。現在の様々なテクノロジーやシステムの「進歩」ゆえに、中途半端な健常者程度でしかない人間が「生きづらく」なっているのだから、境界知能並びにそれ以下の知的障害者の方々がさらに「生きづらい」のは言うまでもない。さらに、ある人曰く「人間誰しも、自らの心の中にヒトラーや植松聖を『飼っている』」との事だが、特に女性にとって「それ」は「貞操観念」という形を取るのだ。

(酒井順子氏のエッセイに「ヤリマンにあまり悪い人はいません」と書いてあったが、それはいわゆる「ヤリマン」が「普通の人」と比べて優生思想的な価値観が弱いからだろう)

 ある人曰く「人権はパイの奪い合いではない」。しかし、世間の少なからぬ人たちは、人間の様々な権利を「パイの奪い合い」そのものだと認識しているだろう。人は損得勘定/感情の生き物である。それゆえに、世間でのいじめや差別ははびこり続けている。国同士の戦争だってそうだし、家庭内での力関係だってそうだ。「一人っ子はわがまま」神話を信じている人たちは、家庭内で兄弟姉妹と「パイの奪い合い」「ケーキの奪い合い」をする必要がない一人っ子に対して、的外れな嫉妬心を抱いているのだろう。

 宮口氏の本で取り上げられている「ケーキ」とは「利益」の比喩だろうと私は思うが、タイトル通りの「ケーキを3等分出来ない」少年少女たちは自らの利欲に対して正直な人たちなのだろう。少なくとも、いわゆる「健常者」であれば、自らの体面を守るためにきちんとケーキを等分して他の誰かと分け合うだろう。そう、これは単なる「知能」だけの問題ではない。


 いわゆる発達障害や境界知能・軽度知的障害が社会問題になるのは、現代社会における「ケーキの奪い合い」が苛烈なものだからである。健常者同士の様々な格差も深刻なのだ。さらに、ネトウヨやトランスヘイターなどの差別主義者たちの存在もまた、世間一般における「ケーキの奪い合い」ゆえに成り立つものである。少なくとも、差別は「無知」だけが原因ではない。そして、前述の陳平のように「ケーキ」を公正に「切り分けられる」政界・財界などの有力者たちこそが、現世には必要である。


(追記)

 YouTubeの某動画コメント欄に次のようなコメントがあった。

《あれは上下関係を意識した切り方という説もあるらしい。アウトローには対等という価値観が希薄なんだとか》

【ITZY - CAKE】