侵食し合う現実とフィクション ―山田正紀『エイダ』―

 私の誕生日は、詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの娘エイダ・ラブレス(オーガスタ・エイダ・キング)と同じ12月10日である(ちなみに歌手の荻野目洋子さんも同日生まれである)。これから紹介する本は、そのエイダ・ラブレスの名を冠するSF小説だ。 

 山田正紀氏の『エイダ』(ハヤカワ文庫)は、「現実」と「フィクション」との関係性をテーマにしている。この小説は、ゾロアスター教神話にメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』やコナン・ドイルのシャーロック・ホームズなどをからめたものだが、私は数年前に図書館で借りて初めて読んだ時は、とにかく「すごい!」と思った。様々な要素がミルフィーユのように重なって、複雑な構成の話になっているのに圧倒されたのだ。

 ただ、バイロンの詩『マンフレッド』には、ゾロアスター教の悪神アーリマン(アンラ・マンユ)がモデルの悪役キャラクターが出てくるのだが、『エイダ』ではなぜか『マンフレッド』についての言及はない。多分、ストーリーをこれ以上入り組んだものにしないために、あえて切り捨てたのだろう。

 この『エイダ』を古本で入手して再読したが、私は改めて「よくもこんな複雑な構成の話を書けたなぁ」と驚いた。古今東西を股にかける物語の集合体がこの小説だが、この辺は『ファイブスター物語』と同じく、私のライフワーク『Avaloncity Stories』にかなりの影響を与えているようだ。


 現実はフィクションとは違う。それが「現実」の原則であり、「フィクション」の原則でもある。しかし、現実とフィクションは実際には何らかの形で互いに影響を与えている。現実に対して物申すために生み出されるフィクションがある。あるフィクションに触発されて、現実世界で善悪いずれかの行動を起こす人間は少なくない。さらに、そんな現実をフィクションが追いかける。現実とフィクションの関係は「胡蝶の夢」の話のようだ。 


 人が「物語」を作りたがるのは、自分なりの「世界」がほしいからだろう。私が小説などの文章を書いたり、ドールカスタマイズでオリジナルキャラクターを作ったりするのは、自らの「世界」を作って愛でたいからである。少なくとも私にとっては「現実」と「フィクション」との関係は、自称「現実主義者」や自称「唯物論者」などが思うそれらほどにはかけ離れたものではない。

 そういえば昔、ある大物ノンフィクション作家が「フィクションは時間の無駄だから読まない」と言っていたらしいが、なるほど、『源氏物語』みたいな大物古典文学を読むのも「時間の無駄」なのか? そりゃ知らなかったわ(笑)。ざけんな。

【Tchaikovsky: Manfred Symphony, Op.58, TH.28 - 4. Allegro con fuoco】

 …いや、だ~か~ら~、バイロンの『マンフレッド』は『エイダ』の中では言及されてないっしょ(笑)。