アーサー王伝説の吉川三国志 ―テレンス・ハンベリー・ホワイト『永遠の王』―

 世の中には、トマス・マロリー『アーサー王の死』の二次創作が色々とある。その中でも決定版と言えるだろう小説が、T.H.ホワイトの『永遠の王』(創元推理文庫)である。

 この小説はアーサーの少年時代から描かれるが、師匠のマーリンが「時間をさかのぼって生きている」という設定なので、未来の人物や出来事を知っている。しかし、アーサーはそれについては気にも止めない。将来の妻と将来の忠臣兼親友が「そういう関係」になるとしても、彼は素知らぬ顔でいる。

 そのアーサーの忠臣兼親友であるランスロットは、一般的には絶世の美丈夫とされるが、ホワイト版の当人はなぜか絶世の醜男にされている。しかし、そんな彼はフランケンシュタインの怪物とは違って、見た目だけでは嫌われない(そもそも、この小説でのランスロットは、司馬遼太郎氏の『項羽と劉邦』における田横のような妖怪めいた容姿ではなく、せいぜい「動物的な」不細工でしかない)。 


 ノーベル賞作家ジョン・スタインベックや『指輪物語』のJ.R.R.トールキンといった大物作家たちがアーサー王ものの作品を未完で残したが、この二人の大物たちのアーサー王物語が未完に終わったゆえに、ホワイト版アーサーこそが「アーサー王伝説の吉川三国志」の位置にあるだろう。この小説は基本的に喜劇風味の語り口だが、アーサーが運命の女性と出会ってから、物語は悲劇的な色合いを帯びる。いや、物語の本質である悲劇の顔を見せる。 


 この小説は戦争に対する考察がテーマになっているというのが実に現代的だ。ホワイトはマロリーの中心主題が「戦争に対する治療薬を探る事だった」と気づいたと、巻末の解説にはあるが、では、この小説における、いや、アーサー王伝説そのものにおけるA級戦犯は誰か? 単純に考えるなら、アーサーの父親がそうだと言えるが、戦争もアーサー王伝説もそんな単純なものではない。

 様々な人々の思惑が交差し、複雑に絡まり続けた結果、運命の女神は希望の糸を断ち切る。しかし、それでもアーサーは未来に希望を見出したい。彼は覚悟を決めて戦場に向かうが、物語は「永遠の王アーサーの書ここに始まる ・・・ 」という言葉で締めくくる。「始まる」というのは、「これでアーサー王伝説が始まった」という意味もあるのだろうが、多分、時間を逆行して生きているマーリンの言葉でもあるのだろう。


 さて、前述の通り、ホワイト版ランスロットは、なぜか一般的なランスロットのイメージとは違って不細工な容姿に描かれている。多分、ホワイト氏はランスロットの人間味を引き出すために、あえてこのような弱点を設定したのだろう。一般的なランスロット像はあまりにも「チート」過ぎるので、かえって物語の主人公としてつまらなくなるだろう。

 それに対して、これまた前述の通り、司馬遼太郎氏の『項羽と劉邦』の田横がスーパー不細工に設定されているのが謎だ。史実の田横ら斉の田氏一族は、楚漢戦争では影の(?)キーパーソン集団なのだが、司馬氏の小説ではさほど重要なキャラクターではない。だから、この田横の凄まじい不細工設定は意味不明を通り越して無意味にすら思える。しかし、実際はどうなのか? 

 劉邦の使者として田氏一族と会見した酈食其 れき いき は、田横の妖怪めいた不細工ぶりを目の当たりにしても偏見を持たなかった。おそらく司馬さんは、酈食其の人を見る目を表すために、あえて田横をハイパー不細工設定にしたのではないかと思う。それ以外に考えられない。


 そういえば、ホワイト版ランスロットはその外見設定の割には、その外見のせいで嫌われる事はほとんどない。アグラヴェインらアンチランスロット派の連中も、当人の容姿のせいで当人を嫌っているのではない。メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』の怪物の過酷な立場と比べると実に不思議だ。

【Kamelot - Once and Future King】