いわゆる恋愛もののフィクションの圧倒的多数派は、異性愛を題材にするものである。そもそも異性愛とは、子孫を残すという結果を大前提としたものである。それゆえに「才子佳人」の物語は、優生思想をロマンティシズムで彩るものとして作られる。それに対するアンチテーゼとして、病人や障害者などの「健康弱者」や醜男醜女などの「ルッキズム弱者」を主人公にした異性愛フィクションもたまにある。しかし、たいていは異性愛というものの本来の意義からして、ある程度「恵まれた」男女の恋愛がフィクションの題材にされる。
しかし、どれほど「病人」や「障害者」や「醜男醜女」などの「変化球」を投げようとも、「異性愛」を題材にするフィクションはこの世に掃いて捨てるほどある。異性愛者自身ですら、異性愛フィクションの粗製乱造に対して飽き飽きしてウンザリするならば、同性愛者や無性愛者などの性的マイノリティーの人たちはなおさらだろう。
ある人曰く、本当に「性差を超えた愛」と呼べるのは、同性愛ではなく異性愛の方だ。なるほど、確かに異性同士は基本的にすれ違う。ならば、韓国の作家ミン・ジヒョン氏の小説『僕の狂ったフェミ彼女』(イースト・プレス)は、まさしく「性差を超えた」恋愛を描いているものだと言える。性差に基づくすれ違いこそが異性愛フィクションの醍醐味だとすれば、この小説はその醍醐味を味わうのにうってつけだ。
おそらくは平均的な韓国人男性であろう主人公スンジュンは、大学時代に同級生だった女性〈彼女〉と恋人同士だった。しかし、彼は一身上の都合によりアメリカに渡る事になり、〈彼女〉は彼に別れを告げる。4年後、韓国に戻っていたスンジュンは、ふとした事から〈彼女〉と再会した。〈彼女〉はバリバリの「フェミニスト」になっていた。
ヒロインである〈彼女〉は、チョ・ナムジュ氏のベストセラー小説『82年生まれ、キム・ジヨン』の主人公とは違って、名前が明かされない。ただ、スンジュンがインターネット上で〈彼女〉の名前を検索する場面からして、キム・ジヨンと同じく、同姓同名の人たちがたくさん存在するような名前だとほのめかされる。つまりは、〈彼女〉はキム・ジヨンと同じく、一般的・平均的な韓国人女性を象徴しているのだ。しかし、〈彼女〉はスンジュンが求める「普通の女」を演じるのをやめていた。
スンジュンは〈彼女〉が他の誰かに感化されて「変貌した」もしくは「歪められた」と思ったのだろうが、〈彼女〉自身は本来の「自分」を取り戻したのだろう。むしろ、以前の〈彼女〉こそがスンジュンに合わせて演技をしていただけだろう。多分、〈彼女〉がスンジュンに対して本当に求めていた関係性は、「恋愛」ではなく「友情」並びに「同志意識」だったのではなかろうか? 〈彼女〉とスンジュンとを隔てる壁とは、「性差」によるすれ違いによって出来上がる「バカの壁(©養老孟司)」だ。男女間の「ベルリンの壁」は、そう簡単には壊れない。同性同士ですらそうなのだから、異性同士ならなおさらだ。
仮にスンジュンが女性であれば、同性同士の「シスターフッド」によって〈彼女〉とは互いにかけがえがない親友同士であり得ただろう。しかし、男性であるスンジュンは〈彼女〉に対して異性愛男性としての欲望を持つがゆえに、自らの欲望に惑わされて〈彼女〉の、さらには自分たちの周辺の人間たちの「地雷」を踏み、結果的に自分たちの恋愛関係第二部を終わらせる。
しかし、互いに二度目の失恋をしても、この二人の将来はそんなに悪くないような気がする。日本でも、別れてから新たに良き友人同士になったという元夫婦や元恋人同士は案外いたりするからね。安直な恋愛や性欲だけが男女の関係性のあり方ではないのだ。映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のマックスとフュリオサや、漫画『ゴールデンカムイ』の杉元とアシㇼパのような「同志意識」関係だってあり得るのだから。
【Evanescence - Call Me When You’re Sober】