芸術家の会田誠氏は、容姿レベルの高い未成年女性(要するに、いわゆる「美少女」)を題材とした衝撃的な作品を次々と発表して物議をかもしだしている人である。諸々の作品についての詳しい説明は省くが、「女性」と「子供」という二重の社会的弱者である「少女」を残酷な描写で作品化する姿勢が、さらには作品群自体が、主にフェミニズムの観点から非難されている。
私が昔読んだ本によると、会田氏は急進的なフェミニストだった母親に対する反発であのような作風になったらしい。要するに「北風と太陽」のお話みたいなものだろう。
その会田氏の作品群について、誰かが「仮に女性芸術家が同じような作品を発表していたら、評価が全く違っていたのではないだろうか」と言っていた。なるほど、言われてみればそうだ。例えば、イアン・ワトスン氏のSF小説『オルガスマシン』(コアマガジン、文庫版は竹書房)は、人造人間の美少女が主人公のフェミニズムSFだが、これは過激な描写ゆえに、完全版が読めるのは日本語訳のみらしい。そして、この小説が非難された最大の理由は、おそらくは「作者が男性だから」である。
会田氏も、ワトスン氏も、「男性」であるがゆえになおさら作品を非難されたのだろう。そういう点においては、世の中には「男性差別」は確実に存在する。 『オルガスマシン』の舞台は未来だが、その世界では大戦争によって天然の人間女性が全滅したらしく、その後、女性たちが人造人間として生み出されるようになった。人造美女たちは、男性たちの欲望を満たすために様々な姿に作られている。
人造人間の美女/美少女といえば、すぐに思い浮かぶのが永野護氏の漫画『ファイブスター物語』のファティマたちだが、『オルガスマシン』の人造美女たちはむしろ、冲方丁氏の小説『マルドゥック』シリーズの登場人物たちのようにグロテスクである。そう、会田誠氏の作品群の美少女たちをサイバーパンクSF風にアレンジしたようなのが、この小説における「カスタムメイド・ガールズ」だ。しかし、この小説の原稿が執筆され始めたのは1970年であり、むしろ会田氏の作品群がこの小説の後追いをしているのだ。
ヒロインのジェイドは、『マルドゥック・スクランブル』のバロットの過去のように、生きた人形として男たちの間でやり取りされる。血と涙が流れる苦難の道がこの小説である。女性たちが性的・肉体的に「搾取」されるフィクションは色々とあるが、ジェイドら女性キャラクターたちが男性たちに迫害されるあり様は、確かに悲惨である。そして、作品内での「エロコンテンツ」の垂れ流し状態とは、現代日本の男性向けオタク文化を連想させる。そもそも、ワトスン夫妻は60年代後半に日本に滞在していたのだから、『オルガスマシン』という作品は当時の日本社会の影響を少なからず受けており、後の日本のオタク文化の「兄弟分」だと言える。
しかし、会田誠氏の作品群が反フェミニズム的なものなのに対し、『オルガスマシン』はむしろフェミニズム的なものである。ジェイドら人造美女たちは、腐敗した「男社会」への反旗を翻す。
ワトスン氏のこの小説に対して「フェミニズム」の観点から批判するのは「勇み足」である。実際に読んでみれば、この小説自体がフェミニズム的な内容なのだから、作者が「男性である」というだけの理由で批判するのは、単なる男性差別に過ぎない。
【Berlin - Sex (I'm A…)】
愛は吐息のように。