男女の「エロ観」に対して考えさせられる伝奇小説 ―谷恒生『紀・魍魎伝説』―

 私は高校時代に荒俣宏氏の『帝都物語』を愛読していた。そして、そのついでに読んだ小説が、谷恒生氏の『紀・魍魎伝説』(『帝都物語』と同じく角川文庫)である。『帝都物語』はまだしも、こちらは未成年女子が読むにはふさわしくない代物だったりする。どちらも、平将門という歴史上の有名人が重要人物として描かれているダークファンタジー小説だが、この『紀・魍魎伝説』は「伝奇小説」としての面白さよりもむしろ、男女の「セクシュアリティ」の違いについて考えさせる内容のものだ。 

 物語の主人公は、現代社会からタイムスリップしてきた若い日本人男性だが、この主人公がそれまでいた「魔人」平将門に取って代わり、新たな「英雄」平将門となる。この展開はもしかすると、漫画『覇 Lord』における「劉備交代劇」の元ネタだったのかもしれない。仮にそうでなくても、かなり酷似している。

 この小説には、かなりギラついたオカルト・スピリチュアル描写(良くも悪くも、80年代の「角川書店文化」らしいパワフルな要素)があるが、それは過激な性描写にもある。主人公たちに敵対する人物たちのエログロ描写は、いたいけな(?)未成年者が読むにはふさわしくない代物であり、きらびやかな陰惨さのてんこ盛りだ。その「陰惨なエロス」とは「タナトス(すなわち、死)」の裏返しに他ならない。


 そう、この「エログロ」要素こそが問題だ。これこそが、男女の「セクシュアリティ」の違いを浮き彫りにする。 


 男性向けエロコンテンツは、登場人物の肉体的特徴を、それも特に性器を強調するものが多いようだ。それに対して、女性向けエロコンテンツは登場人物同士の「関係性」が重大な要素である。少なくとも、男性向けエロコンテンツほどには、性器に対するフェティシズムはない。性器に対するこだわりとは、男性の「セクシュアリティ」の最たる例だろう。女性が自分の性器に対してこだわりを持つ場合があるとすれば、たいていは男性の「セクシュアリティ」の影響であろう。

 この『紀・魍魎伝説』では、男女の性器こそが作品世界の「エログロスピリチュアル」要素を象徴している。しかし、皮肉な事に、主人公と敵対する男女の交合で描かれる「シンボル」には、新たな生命を生み出せる聖なる力はない。ただ、不毛な「淫乱さ」しかない。

 男性向けエロ表現がフェミニズムの観点から批判されやすいのには、まさしく「フェミニズム」と「フェティシズム」の対立という語呂合わせめいた図式がある。もちろん、女性にもある種の「フェチ」意識を持つ人は少なくないが、それはあくまでも「所有」よりも「関係」の問題なのだ。「好きな人の声だからこそ好き」「好きな人の手だからこそ好き」という理屈こそが、女性向けの「エロ」や「フェチ」なのだ。

【Diamanda Galás - Panoptikon】