田舎、貧困、そして女 ―岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』―

 かつて、某ブログサービスに「田舎嫌い」並びに「田舎批判」を公言するブロガーさんがいた。当時の私は、このブロガーさんをいわゆる「ネナベ」、すなわち男性のフリをした女性だと邪推していた。なぜなら、「田舎」並びに「田舎者」に対する嫌悪感とは、男性よりも女性に根強いであろう感覚だからである。 

 問題のブロガーさんはYouTubeチャンネルを開設していたが、動画内容における本人の声質を信じる限りでは、どうやら本当にこの人は男性らしい。それはさておき、女性が「田舎」並びに「田舎者」を嫌うのは、家父長制的・男尊女卑的な価値観に支配されている世界観を、さらには、その世界観に基づく実害を嫌うからである。その辺の事情については、インターネット上で「膿家脳」というキーワードで検索すれば、色々と記事が発掘される。

 そう、この「女」と「田舎」との決定的な相性の悪さこそが問題だ。「女は弱し、されど母は強し」とは、あくまでも将来の「家父長」候補者としての「息子」の母親になっている場合にこそ言えるのだ。その「母親」の虚しさを感じ取る「娘」は「母親」を反面教師として、自らが「妻」や「母親」になるのを拒み、「田舎」よりも「都会」に惹かれる。首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗受刑者が都会に憧れ、田舎を憎んだのは、「女」にとって「田舎」が「地獄」であり得るからであろう。

 ちなみに木嶋受刑者は卒業文集に「嫌いなタイプは不潔、貧乏、バカ」と書いていたらしいが、この辺からして「精神面で見栄を張る」という発想がなかったのだろう。少しでも内面的に見栄を張りたいならば、ここまで即物的な意味での嫌いなタイプを述べなかったかもしれない。要するに、他人に対して端から「精神性」など期待していなかっただろうし、だからこそ、稀代の女性犯罪者としての「木嶋佳苗」は成り立ったのだろう。 


 木嶋佳苗受刑者が嫌う「不潔、貧乏、バカ」をテーマにしたフィクションは少なくない。そもそも「真善美」だけがフィクションのテーマではない。岩井志麻子氏の『ぼっけえ、きょうてえ』(角川ホラー文庫)は、明治時代の岡山が舞台のホラー短編小説集であり、岩井氏の母語である岡山弁が効果的に使われている。表紙絵として使われている甲斐庄楠音 かいのしょう ただおと 『横櫛』は、上村松園の『焔』のように明確に「鬼女」的な女性像としては描かれていないが、それでも得体の知れない恐ろしさを感じさせる絵である。

 そう、この「得体の知れない恐ろしさを感じさせる女」こそが、この傑作ホラー短編小説集を象徴するものである。

①表題作「ぼっけえ、きょうてえ」…主人公は「異形」とまで言えるレベルの「醜女」の女郎。よそ者らしき客に自らの身の上話をする。人が「田舎」の「貧困層」の「女」として生きる苦しみや恐ろしさを体現する話。

②「密告函」…主人公は村役人の男。良く出来た妻を持つが、コレラ禍で混乱する村内で、元々よそ者だった一家の女と出会って以来、運命を狂わされる。

③「あまぞわい」…主人公は漁師町の貧しい女。元々は都会の酌婦であり、田舎の漁師に求婚されて妻になったが、夫との関係は早く冷めた。「男に惚れるというんは、どうやっても最後には男を恨むことになる」。 

④依って件の如し…ある意味表題作と対をなす最終作。村社会内部の被差別者として扱われるいわく付きの兄妹の話。


「田舎」の闇とは、特に「女」にとっては恐怖と嫌悪(下手すりゃ怨念や殺意)の対象になり得る。ましてや、「貧困」などという重要事項まであれば、あまりにもどうしようもなく「ぼっけえ、きょうてえ」事態である。インターネットで「膿家脳」というキーワードで検索すれば、まさしく現代日本の村社会の「ぼっけえ、きょうてえ」事態を記す記事が色々と出てくる。首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗受刑者が心底から「田舎」を憎んだのは当然だろう。家父長制的・男尊女卑的な価値観は、「女」にとっては忌み嫌うべき「地獄」でしかないのだ。

【削除 - Imprinting】

 このアーティスト名は何じゃらほい? それはさておき、『ぼっけえ、きょうてえ』の表題作は海外で映画化されたが、そのタイトルは『インプリント 〜ぼっけえ、きょうてえ〜』だった。その映画で主人公の父親役を演じていた木下ほうか氏の性的不祥事は実にシャレにならない。