20世紀は「戦争とロックの時代」だった。ロックミュージックは、現代史を語るに欠かせない「芸術」の一つである。
ロックミュージックは、1950年代にアメリカで誕生した。それは、かつてアフリカから奴隷として連れて来られた黒人たちが伝えた音楽が根っこにある。そう、元々は黒人あってこその音楽だ。あのローリング・ストーンズだって、アメリカのR&B の影響を大きく受けていた。
そんなロックミュージックという「オーバーテクノロジー」を用いた超変化球的歴史小説(もしくは時代小説)がある。天野純希氏のデビュー作『桃山ビート・トライブ』(集英社文庫)だが、これは歴史小説の形を借りた「現代小説」であり、「青春小説」並びに「ロック小説」である。
ブレーメンの音楽隊のような主役集団は、これまた「人間オーパーツ」だ。三味線を現代のギターのようなストラップで肩にかけて速弾きする藤次郎。現代のサックス奏者のように情熱を込めて笛を吹く小平太。傍若無人 で踊りと喧嘩の天才である紅一点、ちほ。そして、グループで唯一の実在人物で、パーカッショニストの黒人男性、弥介。この「人間オーパーツ」たちの活躍を良くも悪くも現代的な文体で描くのが、この「歴史小説界のオーパーツ」である。
この小説の現代の外来語や俗語を多用する文体は、「一般的」「平均的」な(要するに「正統派」の)歴史小説を好む人たちからは好かれないようだが、私はこの作風に対してはむしろ痛快さを感じる。当ブログで何度も書いているように、私は宮城谷昌光氏の作風や価値観を批判しているが、『桃山ビート・トライブ』は作風も価値観も(塚本靑史氏の作風とはまた別の方向性で)宮城谷作品群のアンチテーゼである。宮城谷氏はクラシック音楽の愛好家として知られるが、ロックなどのポピュラー音楽をこよなく愛する私は『桃山ビート・トライブ』の「ロック性」を好む。
クライマックスは、惨劇の中を主役集団の演奏と踊りで盛り上げるが、それは悲劇に対する鎮魂歌だ。私は涙をダラダラ流しながら読んだが、ふと気づいた。この小説、我が心の師である永野護氏の漫画家としてのデビュー作『フール・フォー・ザ・シティ』の歴史小説ヴァージョンではないのか!?
なるほど、ロックミュージックとはしばしば「反骨精神」と結び付けられる。少なくとも、過去はそうだった。しかし、現在の日本ではロックミュージックは反骨精神とのつながりは薄い。あくまでもポピュラー音楽の一ジャンルに過ぎない。そんな今時のヒットチャートを賑わすような楽曲にはない「反骨精神」を描くのがこの小説だ。
天野氏はその後、正統派の歴史小説を書くようになったが、それは仕方ない事だろう。あくまでも「歴史小説」というジャンルで活動を続ける限り、このデビュー作のような変化球は二度とは使えないだろうからだ。
【七福神 - Gin-Gin】
幻のバンドの楽曲。