ヴィーナス・フランケンシュタイン ―岡崎京子『ヘルタースケルター』―

 精神科医の斎藤環氏は「男性は所有原理が強く、女性は関係原理が強い」と定義しているが、私が思うに、男性の所有原理を象徴するものは「能力」であり、女性の関係原理を象徴するものは「外見」である。いわゆる「コミュニケーション能力」の定義は人それぞれだが、女性にとっての一番の「コミュニケーション能力」は「外見」である。 

 作家の中村うさぎ氏は「人間としての魅力と女としての魅力は違う」と定義したが、女性は人格ではなく、外見によって、「女としての魅力」の有無強弱を測られてしまう。女性にとって、外見とは自己主張のための武器であり、保身のための防具でもある。

 当然、不美人は不利だ。もちろん、美人が過大評価の果てに「見かけ倒し」扱いされる場合もあるが、不美人が「人間」としても「女」としても過小評価されるのは、ありがちな事態だ。そして、女性だけに限らず、人間の容姿とは、他者との関係のためにこそある。

 それと同じ事は「名前」にも言えるが、セム系一神教(すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の総称である「アブラハムの宗教」)で唯一神の名前を呼んだり、偶像を作ったりするのが禁じられるのは、この神様が「男神」であり「唯一神」であるのを保つためである。すなわち、評価の基準としての「他者」である他の神々(もちろん、他の神との区別のための名前やイメージを持つ存在である)を排除するためのタブーだ。

 

 そう、「女神」は「偶像」だ。

 

 岡崎京子氏の最後の漫画『ヘルタースケルター』(祥伝社)は、まさしく「人造美女」の物語である。ヒロインである売れっ子ファッションモデル「りりこ」は、元醜女の全身整形美女だが、彼女の「創造」とメンテナンスはフランケンシュタインの怪物のようである。そんな彼女と所属事務所社長「ママ」並びに美容外科クリニックの女性院長との関係は、いわば同性間のピグマリオンコンプレックスだと思う。 

 ママはりりこを通じて、若い頃の美しかった自分自身を再現する。そのりりこに直接手を下す院長は、自分自身ではなく、りりこを含めた同性の他者たちを「人造美女」「フランケンシュタインのヴィーナス」に作り変える。りりこを生きた女神の偶像に作り上げる二人の女性年長者たちは、世間一般の中高年女性たちが若い美女に嫉妬するのとは対照的だが、私が思うに、彼女たちは少女時代の人形遊びの延長として「人造美女」を生み出したのだ。ちょうど、私自身がドールカスタマイズという手段を通じて「人造美女」を生み出すように。 

 ついでに、この漫画とは関係ないが、孔子と愛弟子顔回の関係も、同性間のピグマリオンコンプレックスだったのかもしれない。孔子は他の弟子たちに発破をかけるために、あえて顔回を思い切りほめちぎったのかもしれないが、それは結果的に、顔回をアーサー王伝説の聖杯の騎士ギャラハッドのような「人造美男」に仕立て上げる事になった。あるいは、孔子は顔回を通じて自分自身を「作り直そう」としたのかもしれない。光源氏に養育された紫の上が「人造美女」であるように、顔回は孔子が作り上げた「人造美男」なのだ。

 

 もし仮に『ヘルタースケルター』の男性版の物語を作るとすれば、それはおそらくは「能力主義神話」を描く事になるだろう。そして、そのようなテーマの傑作はすでにある。ダニエル・キイス氏の『アルジャーノンに花束を』だ。これは知的障害者の男性主人公が、脳外科手術で天才的頭脳を得る物語だが、この話の女性版がたいてい「人造才女」ではなく「人造美女」なのは、「才女」よりも「美女」の方がより「女らしい」存在として価値があると見なされるからだろう。

【BOOM BOOM SATELLITES - HELTER SKELTER】

 ビートルズの「ヘルタースケルター」のカバーは色々とあるが、私はこれが一番好きなのね。これが映画版のテーマ曲だったら良かったのにな。