私は90年代にゲーム『真・女神転生II』をプレイして衝撃を受けた。何と、ヒーロー〈アレフ〉とヒロイン〈ヒロコ〉が実は親子だった。すなわち、彼らがいわゆる「男と女」として結ばれるのは、道義的に許されない。このゲームが発売された90年代とは、日本社会で異性愛主義 が絶対的だった(現時点では)最後の時代である。だからこそ、アレフとヒロコの設定はなおさら衝撃的だったのだ。まあ、すでに『ファイブスター物語』のカイエンとクーンの関係の設定があったのだが、この二人は脇役だから、後のアレフとヒロコの場合よりはまだ許せた。しかも、カイエンの遺伝子上の両親はクーンとは別にいるのだ。
私は今世紀に入ってから、映画『マッド・マックス 怒りのデスロード』を観た。それは、ヒーロー〈マックス〉とヒロイン〈フュリオサ〉が恋愛関係には「ならない」物語である。彼らの関係性は性差を超えた友情であり、仲間意識である。そう、物語のヒーローとヒロインが必ずしも異性愛的な関係性に縛られる必要はない。それで私は思った。この映画、『真・女神転生II』をプレイする前に観たかったな。
陳舜臣氏の小説『秘本三国志』では、張魯の母・少容は曹操や諸葛亮とは性差を超えた友人関係となる。同じく陳氏の三国志小説である『曹操』では、曹操は若い頃は自分の従妹と恋人同士だったが、その恋愛関係は後に性差を超えた友人関係に変化していく。バーナード・コーンウェルの『小説アーサー王物語』シリーズのダーヴェルとニムエの関係だって、性差を超えた親友同士だった(最終的には敵対関係になったが)。そういえば、ある人は「ベテラン夫婦は最終的には性差を超えた友人関係になっていく」と言っていたね。
さて、本題に入る。野田サトル氏の大ヒット漫画『ゴールデンカムイ』(以下、金カム)についての感想は、どのような切り口で書いていこうか? 私は金カムを読み終えてからしばらく悩んだ。何をテーマにして感想を書くべきか? 私は当記事を書くまで色々と迷っていた。それくらい、金カムという作品の感想を書くのは難しい。アイヌと和人の関係性や、幕末以来の各地の様々な因縁などの難しい問題が色々とあるが、もっと率直なテーマにしようか。
私は尾形百之助の人物像の分析をしようかと思ったが、結局は男性主人公 〈杉元佐一〉と女性主人公 〈アシㇼパ〉の関係性について書いていこう。尾形やその他登場人物の人物像については、別の記事を書いていきたい。金カムという作品については、他にも書くべき物事は色々とあるので、それらは当記事とは別の話題にする。
アシㇼパは10代前半の少女だが、20代前半の青年杉元に対してほのかに「異性」を意識した。そりゃあ、そうだろう。我が最愛のアニメ『魔法の天使クリィミーマミ』のヒロイン森沢優は、自分より3歳年上の幼なじみ大友俊夫に恋していたのだし、私自身の初恋相手は、中学校入学時に出会った新米教師である担任の先生だった(つまりは、杉元とアシㇼパの2人とほぼ同じ年齢差だった)のだ。未成年女子にとっては、同年代の男子は基本的に「ガキ」なのだし、「異性」として意識するには魅力に欠ける場合が多い(そもそも男性は「非モテ」こそが多数派である)。よっぽど高条件の同世代男子がいない限り、異性愛者の女の子は年上の男性に対して惹かれる方が自然なのだ。
しかし、杉元はアシㇼパに対して決して性的な目で見ない。「変態パラダイス」漫画である金カムの世界観では、ロリコン並びにショタコンは第一級のタブーなのだ。内地出身の和人である元軍人杉元は、初恋相手の同世代女性の病気の治療のために資金稼ぎをするのをきっかけにして、アイヌの少女猟師アシㇼパと手を組み、同志となる。しかし、彼らはその年齢差ゆえに異性愛主義 に縛られた関係性にはならない。いわゆる「男女の仲」ではないが、精神的な結びつきが強い。その2人の関係性は、恋愛というよりはむしろ「異性間ブロマンス」ではないかと、私は思う。
金塊を巡る死闘から3年以上経っても、アシㇼパが杉元を下の名前ではなく苗字で呼ぶ辺りは、彼らが将来異性愛で結ばれる可能性の低さを暗示しているかもしれない。これは、前述の『マッド・マックス 怒りのデスロード』のマックスとフュリオサの関係性と同じく、男女間の友情を否定しないものだろう。『シュトヘル』のシュトヘルとユルールの関係も単なる「恋愛」以上の深い絆である。そして、異性婚夫婦が長持ちする一番の秘訣は多分「男女間の友情」だろう。恋愛やセックスだけで結びついた男女関係は脆いのだ。
結論。私自身にとって一番の理想の「異性愛」とは、「性差を超えた友情」である。そして、本当に「性差を超えた愛」だと言えるのは、同性愛ではなく異性愛である。互いに肉体的な魅力をなくしてもなお、性差を超えた友情で結ばれているのが「理想の夫婦」並びに「理想の恋人同士」である。仮に杉元とアシㇼパが(さらには、シュトヘルとユルールが)夫婦になっていたとしたら、そのような「性差を超えた友情」で結ばれている夫婦であってほしいが、友人関係のままでいても生涯を通じての「同志」であろう。
【宇多田ヒカル - Gold ~また逢う日まで~】