矛盾の中の「ペイガニズム」 ―小谷真理『テクノゴシック』―

 伍子胥が単なる「ゴシック・ヒーロー」ならば、商鞅はその上を行く「テクノゴシック・ヒーロー」だと、私は思う。

 いきなり何を言い出すか? 当記事はSF評論家小谷真理氏のサブカルチャー評論集『テクノゴシック』(集英社)についての感想だが、とりあえず、この本には伍子胥や商鞅のネタはない。しかし、当記事での伍子胥と商鞅の違いの例えは、単なる「ゴシック」と「テクノゴシック」との違いを表すものだ。

 何しろ、伍子胥が猛烈な「復讐鬼」なのに対して、商鞅は法家思想という冷徹なテクノロジーによって「ダークヒーロー」「宿命の男 オム・ファタール 」になったのだ。そう、テクノロジーが鍵だ。子胥が「エネルギーの塊」だとすれば、鞅は「システムの造り手」である。その、自らが生み出した法によって破滅する商鞅とは、まさにヴィクター・フランケンシュタインである。戦死して死体を車裂きにされるという彼の最期は、まさしくフランケンシュタインの怪物の創造の裏返しだ。


 さて、小谷氏の『テクノゴシック』は、古今東西の様々な文化にある「技術」によって明らかにされる「陰影」、それを表すゴス文化を扱う評論集である。「ゴス」並びに「ゴシック」の定義についての説明はここでは省くが、小谷氏は「矛盾が多いところ=情報量が多いところにゴスの要素が現れる」としている。当然、それは地域によって異なる。

 小谷氏は「ヨーロッパなら歴史性に、アメリカなら心理学的分野に、日本なら子供性にゴスは突出している」と述べる。ヨーロッパの歴史の厚みは言うまでもない。アメリカは国としてはヨーロッパ各国ほどの歴史がない分、代わりに世界各地から人材を集めて国力を高めたが、人種のるつぼゆえの軋轢が心理学を発展させたのかもしれない。日本の「子供性」は多分、儒教思想との関連があるだろう。すなわち「長幼の序」だが、海外からロックミュージックなどの若者文化が伝わり発展していった経緯により、「子供性」や「若者性」に矛盾が生じたのかもしれない。

 アメリカ社会はキリスト教徒がマジョリティだが、その隙間を突くかのように、「異教的」すなわち多神教的な「何か」もある。いわゆる新異教主義 ネオペイガニズム もあるが、『テクノゴシック』では、アメリカ南部のヴードゥー信仰が取り上げられている。その章は19世紀のニューオーリンズに実在した「ヴードゥー女王」マリー・ラヴォーについての評伝だが、以前読んだ時にはこの章に微妙な違和感を覚えた。

 しかし、改めて再読してからはむしろ、すぐ後に「異教大国」日本のテクノゴシック作品を扱う章がある分、かえって腑に落ちた。「矛盾の多いところ=情報量が多く、ゴスの要素が現れる」というのは、日本の場合はさらに、西洋キリスト教文明と自前の多神教文化との食い違いもあるだろう。何しろ、日本のサブカルチャーは偶像崇拝的な要素がたんまりとあるのだ。漫画『聖☆おにいさん』にはイスラム教ネタが出てこないらしいが、おそらく、イスラム教と日本のサブカルチャーとの相性は最悪だろう。


(ちなみに、ロリータファッションの1ジャンルに「ムスリムロリータ」もしくは「ムスリマロリータ」というのがあるが、さすがに基本的に欧米圏の文化である)


 さて、『テクノゴシック』ではさらに「少女」という概念がキーワードの一つになっているが、「少女」がゴスと結びつくのは、世間慣れした成人女性以上に「反家父長制」的な要素をはらむからだろう。小谷氏は「少女」を「大人の女性性を身につける以前の幼生の存在」としているが、この「女性」と「子供」の複合体という立場こそが、「少女」を「矛盾の表れとしてのゴス」の憑坐 よりまし としているのだ。「女子供」は「女子供」であるがゆえに、「男オトナ」に対するアンチテーゼだ。しかし、いわゆる「ロリコン」の男性たちは多分、「少女」という生き物の恐ろしさを知らない。

 少女たちは、基本的に家父長制に依存して(させられて)生かされる存在だが、彼女たちの「オジサン」に対する目線は容赦ない。彼女たちは生きた「人形」として男性たち(や一部の女性たち)の目の保養とされるが、彼女たちの男性たち(や年長の女性たち)を見る目は厳しい。彼女たちがロリータファッションに身を包むのは、あくまでも「武装」、決して男性たちに対する媚びなんかではない。多くの成人女性が世間に対して色々と妥協せざるを得ないのに対して、少女は「自分の世界を守る」のだ。

【Evanescence - Bring Me To Life (Official Music Video)】

 テクノゴシックというと、まずはこのバンドの楽曲を思い浮かべる。リーダーのエイミー・リー氏と元サブリーダーのベン・ムーディー氏との確執は、何だか張耳と陳余を連想させるねぇ(失敬)。