理想主義の海から産まれたヴィーナス ―巽孝之・荻野アンナ【編】『人造美女は可能か?』―

 結論から言おう。「美女」とは何らかの理想のシンボルである。少なくとも、わざわざ「醜い」誰かや何かを何らかの理想のシンボルとする人間はほとんどいない。醜いものとは、この世知辛い「現実」そのものである。

 例えば、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのような男性画家が描く美人画は、男性にとっての「理想の他者」のシンボルだが、それに対して、上村松園のような女性画家が描く美人画は、女性にとっての「理想の自己」のシンボルである。そして、女性が「キレイになりたい」と願うのは、理想の自己を得る事によって、自分自身を愛したいからである。 

 美女とはしばしば何らかの理想のシンボルとされる。それに対して、「醜いもの」は現実の厳しさのシンボルである。人が醜いものを嫌うのは、ただ単に「視覚的に不快感を覚えるから」というだけでなく、それが「現実」の暗黒面を見せつけて、人を不安にさせるからだ。


 評論集『人造美女は可能か?』(慶應義塾大学出版会)は、古今東西の「人造美女」イメージを扱う論文集だが、様々なジャンルを扱う学者や作家や評論家たちが集まっただけあり、様々な角度から「理想の他者や自己」のイメージとしての「人造美女」たちが論じられる。これらは主に、近現代文化における様々な美女イメージが扱われるが、美女たちの出自は様々であり、彼女たちの「定義」も様々だ。

 仮に「そもそも『美女』という概念自体が人工的でないかい?」というツッコミがあるとすれば、それは「美しくない女」こそが「自然な女」という身も蓋もない結論になる。何しろ、生まれついての生身の人間女性は、生き物としての宿命上、容姿が衰える。その自然の摂理に対する反発として、年を取らないゆえに容姿が「劣化」しない「人造美女」が求められる。しかし、「人造美女」に対する欲求とは、何も男性の専売特許ではない。女性たちもまた、自らの美容整形やダイエットやアンチエイジング、並びに、芸能人などの有名人や人形などの媒体によって「人造美女」イメージを求めるのだ。


 ところで、本書の編著者の一人であるフランス文学者の荻野アンナ氏は、この本のたたき台となったシンポジウムで「死んだイケメンは人造美男になれるんですか?」と質問していたが、私の答えは「生前の実際の容姿はどうであれ、ある種の歴史上の男性有名人たちは人造美男になり得る」だ。例えば、『戦国無双』や『戦国BASARA』などのゲームのキャラクターたちを見るがいい。彼らこそが、現代社会に蘇った「人造美男」や「人造美女」、歴史オタクやサブカルチャーオタクたちの理想主義の海から産まれたヴィーナスなのだ。

【ALI PROJECT - コッペリアの柩】

 アリプロジェクトの宝野アリカ氏もこの本に寄稿しています。