昼下がりのアヴァロンシティ。春真っ盛りの「世界の首都」は、常に活気ある輝きを放つ。この現代の〈ビッグ・アップル〉は、まさしく巨大なおもちゃ箱だ。俺たちアヴァロン市民は、このおもちゃ箱の中で生きている。
俺たち人間はおもちゃの遊び手か、それともおもちゃそのものだろうか? 運命の女神は常に気まぐれだ。
「さて、何とか約束通りの時間に間に合うかな?」
一般車両の走る道路には、何台かのエアカーも混じっているが、俺の車は直接タイヤで走る。幸い、道路はそんなに混雑していない。
現代の不思議の国 〈アガルタ〉を出た俺は車を飛ばし、ライラの待つ家に向かった。ラジオからは、モデル出身の歌姫ロクシー…ロクサーヌ・ゴールド・ダイアモンドの曲が流れる。「モデル上がり」の歌手や役者は過小評価される事が多いが、ロクシーは別に下手な歌手ではない。ただし、他人が影武者として歌っているのではない限りは。
俺の雇い主、ライラ・ハッチェンス。俺の恩師アーサー・ユエ先生の妻であり、画家である人。つまり、彼女も「伝統文化」の継承者だ。しかも、油絵という古典的なメディアだ。
「こんにちは。いつも約束より絶妙に早めに来てくれるわね。アートも言ってたわ。『あいつは生真面目さがかわいらしい』ってね」
「え、先生、そんな事言ってたんですか?」
「ええ。あなたは、あの人の教え子の中でも特別ね。名前が名前だけに、何だかアーサー王とランスロット卿みたい」
「ランスロット…ですか。俺の友達にもランスロットという名前の奴がいるんですけどね」
ライラは笑う。
俺は彼女の絵のモデルになっている。しかも、ヌードモデルだ。
ライラは俺の体格をほめてくれる。確かに俺は、そこそこ身体を鍛えているし、筋肉の付き方だって悪くはないと思う。ユエ先生も、俺がライラの絵のモデルになるのを認めてくれた。
あくまでも、副業。今の俺は、まだまだ文筆業だけでは食べてはいけない。学業と執筆活動との合間、時々こうして副業をしている。テレビのバラエティ番組でコメンテーターとして出演するのも含めて、俺は「作家」というよりも「何でも屋」だった。
俺とユエ先生の付き合いは、俺が生まれてから…いや、生まれる前からだった。俺の両親がユエ先生と親しかったからだが、俺がアヴァロン大学の文学部中国文学科に進学したのは、ユエ先生の教え子になるためだった。
ユエ先生はすでに大物作家でもあったが、俺が大学に進学してから、先生は大学を退官した。
実はユエ先生は、少年時代に子役俳優の仕事をしていたが、中学校 進学を機に芸能界を引退した。俺は昔のユエ先生が出演していた映画をいくつか観た事があるが、まさしく天才子役だった。しかし、もし先生が芸能界を引退しなければ、俺は先生の教え子にはなれなかったのだ。
多分、先生は芸能界の世知辛さを思い知らされて引退したのだろう。往年の子役スターが身を持ち崩してスキャンダルまみれになるのは、地球の昔から変わらない。先生は、自らがそのように道を外すのを避けたのだ。
「このハーブティーは、リラックス効果があるのよ。このマカロンも甘さ控えめでおいしいわ」
俺は下戸で甘党なので、彼女の心遣いが嬉しかった。薔薇の香りのマカロン。口の中に妖しい香りが満ちる。
ライラ。彼女は今45歳だが、少なくとも実年齢より十歳は若く見える。艶やかな黒髪をボブカットにし、紫の眼は妖しく輝く。宿命の女 だなんて言葉すら思い浮かぶほどの、凄みのある美女だ。とても、中学生の息子がいる中年女性とは思えない。
この人は美しい。不吉なくらいに。理性が吹っ飛びそうで息が詰まる。だいぶ前から感じていた、甘い罪悪感。
ええい、何を考えているんだ、俺は。この人は我が恩師の奥さんだし、俺はあくまでも仕事としてこの人に雇われた絵のモデルだ。しかし、ドキドキは止まらない。
何しろこのアトリエは、彼女の寝室でもある。俺は、彼女のベッドの上に素っ裸であぐらをかいている。いかにも危ういシチュエーションではないか? 俺は両手で股間を隠す。ライラはそんな俺を怪訝そうな目で見つめる。
「あなた、まだ何かが足りないわね」
ライラは言う。何が足りないって? 俺の戸惑いをそっちのけに、彼女は俺に近づき、そっと俺の頬に触れた。妖しい微笑み。ライラは俺の耳に口を寄せ、そっとささやく。
耳の穴に、甘く熱い蜜が注ぎ込まれる。
「燃えるような官能よ」
俺の視界は、炎のように真っ赤に染まった。
✰
「チクショウ…!」
俺は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。自分の両親と同じくらいに尊敬している恩師の、その妻である人と、道ならぬ関係になってしまったのだ。
ライラは、実に蠱惑的な女だ。俺はまるで、女に対する免疫のない童貞 のように、彼女の美と性に身も心も撃ち抜かれた。
《かわいいフォースタス。私も溺れるわ》
それまで、俺には「恋人」と呼べる女が何人かいた。そのうち、初恋相手の女の子とは、キスさえもしていない清い関係だった。何しろ、当時の俺たちはまだ中学生だったのだ。プラチナブロンドの髪に空色の眼の美少女だった彼女は、名前をヘレナといったが、彼女は不慮の事故…数年前のモノレール爆破事故で亡くなった。
二番目の恋人は、ハイスクールの演劇部の先輩だった。俺が作家活動の傍ら、友人の劇団に参加しているのは、この部活動で芝居の面白さに目覚めたからだ。そして、問題の先輩こそが俺の初めての「女」だったが、飽きっぽい彼女はサッサと俺を捨てて、他の男に乗り換えた。
他の歴代恋人については、今さら振り返るのもバカバカしい。
ライラ。俺の「ファム・ファタール」。
俺は、タブレット端末に向かった。『ファウストの聖杯』、それが俺の執筆中の小説のタイトルだ。
これは、主人公の松永久秀が所有していた茶釜〈平蜘蛛〉を意味する。そして、久秀は敵の降伏勧告を拒み、この茶釜を抱えて爆死した。あたかも、ゲーテのファウスト博士のモデルになった人物のように。
なるほど、あのマツナガ博士のフルネームは、いかにも「出来過ぎ」だ。まあ、バールが普通の人間として名乗る名前ならば、芸能人の芸名や作家のペンネームなどのように「作為的」になるのは仕方ないのだろう。
「あの人は食えない人だけど、史実の久秀もあんなんだったのだろうな」
聖杯とは、アーサー王伝説のキーアイテムの一つである。そして、アーサー王伝説とファウスト伝説は、互いに補完関係にある。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉があるが、アーサー王は言うまでもなく「王侯」であり、ファウスト博士は「将相」の候補者なのだ。そして、中国史の春秋時代と戦国時代とでは、アーサー王伝説とゲーテの『ファウスト』ほどの雰囲気の違いがある。
だから当然、ユエ先生と俺のファーストネームの組み合わせも皮肉なものだ。それに、俺の幼なじみで一番の親友である奴の名前は「ランスロット」だけど、そのランスではなく俺が「ランスロット」になってしまうのは実にややこしい事態だ。
もしランスの奴が一人前の弁護士になったら、俺が何か不祥事を起こした場合に弁護してくれるだろうか? まあ、筋を通すあいつの事だ。明らかに俺に非があるならば、まずは依頼を引き受けないだろうな。
ましてや、今の俺の過ちならば、なおさら。
「そういえば、しばらくランスに会っていないな」
ランス…ランスロット・ファルケンバーグは七人兄弟の長男で、飛び級でアヴァロン大学の法科大学院に通っている苦学生だ。そして、すぐ下の弟ロビンはプロボクサーを目指している。父親は大学講師だが、母親は居酒屋を経営している。ランスとロビンはハングリー精神の塊だ。特にランスは一見冷徹そうに見えるが、実は熱い男だ。
外には犬の散歩をしている老婦人がいる。その老婦人は、どことなくベテラン司会者の〈マダム・コンピー〉ことグロリアーナ・デ・コンポステーラに似ている。ファッションセンスもどことなくマダム・コンピーを彷彿とさせるし、犬もまた派手な服を着せられている。しかし、あの犬が必ずしも天然の犬だとは限らない。なぜなら、人間の言葉を話すロボット犬などの「人造ペット」たちはありふれているからだ。あの犬はそれらしく、ショッキングピンクの毛皮を身に着けている。見るからに悪趣味だ。
そんな悪趣味なペットを連れている人間は、自らの体に動物の耳や毛皮や鱗や尻尾などを移植しているアウトサイダーが多い。乳房や性器を複数移植している奴らもいる。
俺は、部屋の片隅に置いてあるギターケースに目を向けた。ハイスクール時代にちょっとかじったけど、部活動は軽音楽部ではなく演劇部だった。バンドを組んでいた友達から、ヴォーカリスト兼ギタリストとして誘われた事があったけど、俺は断った。
試しに弾いてみようか? いや、俺のギターの腕前はかなり錆び付いているだろう。そもそも、弾く機会自体ない。歌は、たまに友達とカラオケ屋で歌うくらいだ。
まだ夜ではない。しかし、今の俺の精神状態からして、今夜もまともに眠れそうにないだろう。
【Original Love - あまく危険な香り】