「フォースタス・ヒサヒデ・マツナガ、それが俺の人間 としてのフルネームだ」
ドクター…フォースタス・マツナガ博士は言う。ドクターは、袋から味噌汁カプセルを取り出し、マグカップに入れてお湯を注ぐ。俺は味噌汁の代わりにコーンポタージュのカプセルをもらい、マグカップに入れてお湯を注いで、スプーンで混ぜて飲む。ドクターは箸で、味噌汁の具をつまんで食べる。俺はドクターへのお土産としてケーキを買ってきたが、ドクターは味噌汁を飲みながら箸でケーキを食べている。
研究所の外は、満開の桜吹雪だ。住人たちが気ままに散策している。さらに、高性能で凝ったデザインの義足を身に着けた男がジョギングをしている。現代の医療技術ならば、生身の四肢を再生出来るが、中にはあのランナーのような者もいる。
「地球史が好きなお前なら知っているだろう? 日本の戦国時代の梟雄 、松永久秀。俺の名前の由来だ」
そういえばそうだ。俺が現在執筆中の小説の主人公。その「梟雄」の名前をミドルネームとして名乗り、俺と同じファーストネームを名乗るこの人こそが、俺の小説の主人公のイメージだ。ドクターが自分の名前について言い出したのは、たまたま歴史上の有名人や、それらに由来する人名について話していたからだ。
そもそも、俺の「フォースタス」という名前自体が、この人にあやかって名付けられたのだ。そのせいか、俺はこの人に対して頭が上がらない。 この人は実年齢は80歳近いが、見た目は50歳前後にしか見えない。しかも、体力年齢はさらに若い。それもそのはず、この人は〈バール(baal)〉なのだ。
人工子宮で生み出される人造人間であるバールたちは、主に兵士や警察官や消防士などとして人間社会で使われるが、裏社会では売春婦や男娼やマフィアの鉄砲玉 として酷使される。前者は連邦政府が管理する研究機関〈アガルタ〉で生み出されるが、後者は民間企業で造り出される。後者の場合、一部の金持ちが道楽で所有する事もある。つまり、生身の人間同様の…いや、まさしく生身のラブドールだ。
フォースタス・マツナガ博士は、ここアガルタで生まれたバールだ。つまり、アスターティたちの「兄貴分」だ。しかし、この人はアスターティと同じく人間同様に育てられた。普通の人間としての戸籍を得て、アヴァロン大学の医学部を卒業し、医師免許を得て連邦宇宙軍の軍医になった。
そして、見た目年齢通りの年頃に退役し、研究者の一人としてアガルタに戻ってきた。
バールたちは、普通の人間に比べて老化が遅い。それに、知能や身体能力などが優れており、美男美女が多い。このマツナガ博士もロマンスグレーの男前だ。それに、下手な天然の人間の若者以上に体力に恵まれている。
「実は今、その『悪名高き』松永弾正を主役に小説を書いているんですよ」
俺がそう告白すると、ドクターは苦笑いを浮かべた。
「そういえば、お前も『伝統文化』の担い手なんだな。今の世の中では、小説などの文学は『伝統文化』だからな」
伝統文化。そう、俺たち地球人の末裔は、古くからの文化を守り続けている。元々はサブカルチャーだったロックミュージックもまた、この植民惑星〈アヴァロン〉においては立派な伝統文化だ。
「こないだ、アスターティの曲を聴かせてもらったが、あの娘 はなかなかの才能がある。歌はうまいし、声質も素晴らしい。仮に21世紀の地球にいても、売れっ子ミュージシャンになった可能性があるな」
ドクターの口からアスターティの名前が出てきて、俺は一瞬ヒヤッとした。
アスターティ・フォーチュン。まだ14歳、もうすぐ15歳になる女の子だが、俺の婚約者だ。そして、ここアガルタの人工子宮から生まれたバールだ。
アスターティは、空色の目とプラチナブロンドの髪を持つ美少女だ。おそらく、あと何年か経てば、誰もが目を奪われる美女に成長するだろう。
しかし、今の俺は自分自身の恋をしたいのだ。
「この惑星 の文明は、ピークを過ぎている。その退廃ゆえに、退屈を持て余している奴らはゴマンといるさ。何しろ、大昔の地球みたいに訳の分からんカルト集団もいるんだ。そいつらが落伍者や不満分子を惹きつける。そもそも、人間が本当に一番恐れているのは『退屈』なのだからな」
「退屈…?」
「そう、戦争がなかなかなくならないのもそのせいだよ。今みたいに戦争のない時代だって、事なかれ主義者だけでなく『事多かれ』主義者も掃いて捨てるほどいる。あの〈ジ・オ(The O)〉の連中みたいにな」
「〈ジ・オ〉って、あのカルト教団だか政治団体とかですか?」
「あれの政治部門は、政党として別にある。今は泡沫政党の類だと世間では思われているけど、バックに得体の知れない奴らがおるだろうさ」
「おっかないですね」
俺は問題のカルト教団の噂を思い出し、冷や汗をかいた。5年前に起こったモノレール爆破事件の犯人は〈ジ・オ〉のメンバーだという噂があったが、容疑者とされた男は逮捕前に自殺し、事件は迷宮入りとなった。
ドクターは言う。
「あまり辛気くさくなるな。退屈しのぎなら、うまいもんでも食って気晴らししろ。俺は退屈が嫌いだけど、あくまでも平和的な手段で気晴らしするよ」
そう、大昔の「梟雄」と、目の前の「梟雄(?)」。どちらの松永氏も退屈が嫌いなキャラクターなのだ。俺はドクターに別れの挨拶をし、アガルタを出た。
晴れ晴れとした青空と陽気の下で、俺は車を走らせ、次の目的地に向かう。そこは新たな仕事場だ。今の俺は専業作家ではない。現役大学生として、曲がりなりにも勉学に励んでいるつもりだ。
俺はもうすぐ20歳の誕生日を迎える。いつ、作家として独り立ち出来るだろうか? 俺は大学に進学して、間もなくプロデビューしたが、いつ専業作家になれるかは分からない。俺は様々なアルバイトをしているが、たまに映画やテレビ番組にエキストラとして出演している。つまり、半ば芸能人の端くれみたいなものだ。
次に行く仕事先は、放送局でも収録スタジオでもない。俺が尊敬している人の家だ。しかし、仕事の依頼人はその人自身ではない。
今の俺は、そこに行くたびに緊張する。依頼を受ける以前にはなかった感覚だ。いや、本当になかったのか? カーラジオからは、人気ラジオパーソナリティの番組が流れる。軽妙なトークが放送されているが、今の俺にはそれを気楽に楽しむ余裕はない。
これから会う相手は、決してただの凡人ではないのだから。
俺は身震いする。
✰
俺が今生きている惑星〈アヴァロン〉は、地球人の子孫たちが開拓した植民惑星だった。太陽系外に進出した地球人たちは、大規模な宇宙移民船を次々と送り出し、いくつかの惑星に移住した。そして、地球上の国家が統合されて〈地球連邦〉となり、アヴァロンも連邦の一部となったが、地球本星からの独立戦争を経て〈アヴァロン連邦〉となった。その首都が、アガルタ特別区を擁するここ、アヴァロンシティだ。そこで語られるのが、俺自身の物語だ。
アヴァロン連邦の初代大統領アーサー・フォースタス・フォーチュンは、正体不明の孤児だった。児童養護施設で育てられた彼は、ある人物の援助を得て法科大学院へと進学し、弁護士資格を得たが、やがて独立戦争の最前線へと進んでいった。地球連邦の圧政からアヴァロンを解放した彼は、市民たちからの支持によって、この惑星の初代大統領となった。そして、俺のファーストネームの由来になったもう一人の人物でもある。
俺の先祖は、アーサー・フォーチュンの戦友の一人であり、大企業〈邯鄲 ホールディングス〉と関連企業群の創始者だった。その子孫である俺は、いわゆる「お坊ちゃま」だった。
大学進学を機に一人暮らしを始めた俺は、ハイスクール時代の演劇部での活動で脚本を執筆していたのを足がかりにし、小説を執筆して発表するようになり、プロの小説家になった。 苦労知らず。俺をそう見なす者は少なからずいるだろう。嫉妬されるべき人生。そう皮肉を言われるような、恵まれた出自の人間として、俺は存在する。
そんな俺が奈落の底に落ちるような時、手を差し伸べてくれる者はどれだけいるのだろう?
桜の木の下には、誰かの死体が埋まっている。昔の地球人はそう言っていた。誰かの美しさや華やかさの影には、別の無数の誰かの犠牲があるのだ。ある人の努力が報われれば、代わりに別の誰かの努力が報われなくなる。そのような事態の代表例として、受験勉強や就職活動などがあり、恋愛や結婚などがあるのだ。
今のアヴァロンシティは、桜吹雪の季節だ。淡いピンク色の風に乗り、〈世界の首都〉はますます活気づく。誰も彼も陽気になれる季節だ。
ただ、その光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。「アーサー王の再来」を建国の英雄として生まれたアヴァロン連邦にも、社会の「影」がある。いつ、内乱が起きるか分からないので、軍隊の解散などは出来ない。
夢と希望の中に不吉さを潜めた〈ビッグ・アップル〉アヴァロンシティで、俺は生きている。
【岡村靖幸 - 19歳の密かな欲望】