舞台『ファウストの聖杯』

 10月、すっかり秋だ。ついに今日、問題の劇『ファウストの聖杯』が開演する。私の女優としての初仕事であり、フォースタスと私の関係も含めて色々と話題になっていた。

 私はマリリンとベリンダにチケットを贈ったが、スコットはフォースタスの親友ランスにチケットを贈っていた。どうやらスコットはマツナガ博士と色々相談して、ランスとフォースタスを和解させようと目論んでいるようだ。もちろん、スコットは博士にもチケットを贈っている。

 それにしても、なぜマツナガ博士はスコットと知り合ったのか? 博士の人脈は何とも謎だ。

 マリリンに贈ったチケットは、ルシールとフォースティンの分もある。ジェラルディンはスケジュールの都合上、来られないという。私がルシールとフォースティンを招待したのは、閉幕後、楽屋に来てもらいたいからだ。問題はランスだけど、何とかフォースタスを許してもらいたい。

 緋奈役の私は、長い黒髪を後ろで束ねたカツラをかぶっている。私は赤い着物を着ているけど、他の役者さんたちもかなり凝った衣装を着ている。

「ミュージシャンとしてステージに立つのとはまた別の緊張感があるわ」

「いつもとは別の戦場か…」 

 久秀役のスコットは微笑む。この人の笑顔には常に頼もしさがある。フォースタスもスコットの笑顔に勇気づけられたようだ。

「さあ、いよいよ出陣だ」 


 舞台の幕が開く。


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 冒頭、何人かの役者さんたちが見事なダンスを披露する。これは地球のジョージア グルジア の民族舞踊を元にした振り付けだ。その背後に、一人の男が現れる。


「登りつめた龍には後悔がある。もう、それ以上は登れず、あとはただ墜ちてゆくだけだからだ」


 フォースタス演じる妖術使い、果心居士が幻術を披露する。彼は知人からある男を守るように頼まれた。その男がスコット演じる武将、松永久秀だった。 

 久秀は戦国の群雄の一人である三好長慶の寵臣だったが、その有能さと主君からの信頼ゆえに、他の者たちに妬まれていた。この『ファウストの聖杯』における久秀とは、他人からの妬みによって「梟雄」の汚名を着せられた人物である。 

 しかし、この物語での久秀の「梟雄」イメージは全く根拠のないものではなかった。フォースタスとスコットとナターシャが作り上げた久秀は自由奔放な男で、ある種のロックスターのようだった。彼は少年時代に受けた屈辱への復讐の如く、気ままに振る舞った。 


「俺は誰のものにもならない。俺は俺自身のものだ」 

「なるほど、それでこそお前だ」

「お前もだろう?」 

「俺は己が分からん。どれだけ生きていようが、俺自身が一番の謎だ」

「果心。お前は千年以上も生きている古狐なのに、何ともかわいらしい子狐だな」

「久秀、それはどういう意味だ?」 

「お前自身、分かっているだろう?」 


 彼は若い頃、緋奈という名前の美しい妻がいた。彼女は、母親の再婚相手である継父から性的虐待を受け続けたのを苦にして、家出した。そして、遊女となって久秀と出会い、久秀は緋奈の兄や果心の助けで彼女を身請けし、彼女を妻にした。しばらくは幸せな結婚生活を送っていた二人だが、緋奈の美貌に執着する継父が彼らのところにやって来たので、久秀はこの男を斬り殺してしまった。夫に舅殺しの罪を犯させてしまった緋奈は苦しみ、自害してしまった。彼女のお腹の中には、久秀の子供がいた。

 この緋奈の同父母の兄が、果心に「久秀を守ってくれ」と依頼した。緋奈の兄は久秀と同じく三好家に仕える忍びの者だったが、久秀は最初はなかなか果心に対して心を開かなかった。しかし、果心の必死の説得によって、久秀は果心を信頼し、生涯の友とした。

 そんな果心は、知らず知らずのうちにややこしい事態を持ち込んでしまった。彼はある海岸で女の赤ん坊を拾った。そして、知り合いの家にその子を預けたが、彼はその子に「緋奈」と名付けたのだ。その時の彼は、それが久秀の最初の妻と同じ名前だと思い出せなかった。この娘、緋奈は成長していくうちに果心に恋い焦がれるようになる。成長した緋奈は果心に自らの思いをぶつけ、二人は結ばれる。しかし、果心は彼女の思いの強さに戸惑い、耐えきれず、ついには、彼女を久秀に譲ってしまった。


「すまん、許せ!」 

「お前、どういうつもりなんだ!?」


 果心は二人のもとから去っていった。


 ✰ 


 緋奈は果心が去ったのに衝撃を受けて悲しんだ。自分の重い思いが彼を追い詰めたのだと。久秀はそんな彼女を誘惑したが、彼は果心を見捨ててはいなかった。

「俺が生きている限りは、お前もあいつも俺のものだ」 

 男は女を抱きながらささやく。フォースタスが書いた原作小説では、明らかな濡れ場として描いている場面だが、さすがに舞台では、軽く抱き合うだけだ。

 やがて果心は、久秀のもとに戻ってきた。湯殿に通され、久秀が待つ寝所に通された。その部屋は、たくさんの山百合の花で飾られ、甘く濃厚な香りで満たされていた。

 先に沐浴していた久秀は、何事もなかったかのように、何食わぬ顔で友を迎えた。ゆったりとあぐらをかいてくつろぐ彼の隣では、緋奈が黙ってうつむいて座っている。 

 緋奈は、緋色の薄い小袖を一枚まとっているだけだった。薄暗い部屋の中にある灯火が、彼女の白い柔肌を透かす。どうやら彼女は、久秀と一緒に湯殿にいたようだが、頬を赤く染めているのは、そのせいばかりではないだろう。

 果心は、部屋の奥に敷かれている床が気になって仕方がなかった。そんな彼を面白がるかのように、久秀は言う。妖しい微笑み。実年齢よりもはるかに若々しい、肌の張りと艶。

「極上の酒と肴を用意している。今夜は、共に楽しもうぞ」 


 問題の場面は、舞台ではただ「ほのめかされる」だけだ。しかし、三人の複雑怪奇なロマンスは続く。 


 果心は以前、ある戦でとんでもない事態を起こしていた。過去のトラウマに苦しむ彼は錯乱し、暴走し、その強烈な魔力で巨大な火の玉を放った。それは敵を焼くだけでなく、大仏殿をも焼き尽くした。そして、その場に倒れたところを久秀の家臣に救助された。

「このままでは果心が危ない」 

 久秀は、自分と昏睡状態の果心の手のひらに傷をつけ、果心の手を握り締める。二つの傷が合わさり、やがて血が止まる。果心は己の魔力のほとんどを封じ込められていた。

「これも、こいつを守るためだ」 

 妖術使い果心居士は、ほとんどの魔力を封じ込められた。しかし、それでも彼は不老不死の肉体を保っていたし、ささやかな幻術を使う事は出来た。久秀は、果心と緋奈を信貴山城に留め、他の群雄たちと戦った。彼はやがて、織田信長に降伏したが、プライドの高い彼は信長に対する反感を持ち続けた。 


「信長にとって俺はただの玩具 おもちゃ さ。だが、俺は奴の玩具のままではいられないぞ」 

 久秀は言う。そして、果心も同様に思った。

 子供のような好奇心の持ち主。それは信長も久秀も同じである。しかし、だからこそなおさら同族嫌悪が生じるのだ。 

 共感とは、好意だけではない。お互いに対して自らの影を見て忌み嫌うのもまた「共感」である。人は、他者を自己の鏡とするのだ。


 果心と緋奈は、信貴山城内の離れでひっそりと暮らしている。久秀はたまに訪れるが、ちょっとした世間話をして過ごすだけ。他には、緋奈に琴や琵琶を弾かせて聴き入るくらい。かつての「宴」は遠い夢のようだった。 

 ひょっとして久秀は、自分と緋奈がよりを戻せるように「荒治療」をしたのではないだろうか? 果心は、古くからの友がいまだによく分からなかった。 


 そして、運命の時は近づいた。久秀は信長に追い詰められた。


「果心よ。お前を本心から求めている者の思いを受け止められないならば、お前は死すべき凡夫と変わらぬぞ」

 久秀は言う。

「お前、緋奈を抱えて城から飛んで逃げられるだろう? さあ、行け!」 

 果心はうなづいた。彼は緋奈を抱きかかえ、外に出た。 

「果心、俺を焼き尽くしてくれ please burn me out 。 あの時、大仏殿にでかい火の玉をぶち込んだように。俺は商鞅 しょう おう のように『墓なき者』となるのだ」 

 手前にある平蜘蛛の茶釜には火薬を詰めている。この釜も果心に譲ろうとは思った。しかし、そうすれば、あの信長は何としても果心から平蜘蛛を奪おうとするだろう。

 果心と緋奈と三人での茶会で用いた思い出の茶器。しかし、これからは自分と一緒に砕け散る。

「せめて、お前たちの心の中で生き続けたい。俺はお前たちの目や耳などを通じて、これからの世の中を知っていこう」 

 久秀は短刀を鞘から抜いた。 


 特殊効果で、大爆破が表現される。フォースタスと私が演じる果心と緋奈は、ワイヤーに吊るされて宙を飛ぶ。

 場面は一転して、沖縄の海辺に変わった。

 果心と緋奈は織田信長の軍勢から逃れて、薩摩へ、そして琉球へと逃れた。誰からも邪魔されない、夫婦水入らずの暮らし。果心は奇術を披露し、緋奈は琵琶や三線 さんしん を弾いて歌い、住民たちの喝采を浴びた。それで十分食べていけた。 

 しかし、緋奈は果心のように不老不死ではない。果心は、彼女の最後を看取った。 

 かつて久秀を弔ったように、果心は緋奈の亡骸を焼いた。そして、彼女の遺灰を琉球の美しい海に撒いた。 

 さらに場面は変わって、21世紀前半の日本。不老不死の果心は、スタジオミュージシャンとして生きていた。フォースタス演じる果心は、ギターを生演奏した。 

 フォースタスは高校時代に、ギターを少しかじっていた。しばらくはギターに触れていなかったらしいが、私はフォースタスのギターの練習に付き添い、フォースタスは演奏技術が上達していった。

 この劇のエンディングテーマは、私がこの劇のために書き下ろしたものだ。

 そして、私が演じる緋奈は再び舞台に立ち、最愛の人果心、すなわちフォースタスと共に歌う。物語は幕を閉じた。

 カーテンコール。手応えがあった。私たちは盛大な喝采を浴びた。


 ✰ 


「全く、大した奴だよお前は!」 

 劇が終わり、私たちは楽屋に戻った。フォースタスの二人の恩師、マツナガ博士とアーサー・ユエ先生が楽屋を訪ねてきた。さらに、昔からの友人知人など何人かの訪問者がいた。

 その一人に、フォースタスの幼なじみで弁護士のランス…ランスロット・ファルケンバーグがいた。

 潔癖で正義感が強いこの人は、長い間フォースタスの不祥事を許さなかった。しかし、ランスはスコットやマツナガ博士らの説得に心を動かされて、私たちの芝居を観に来てくれたのだ。 

「ランス、観に来てくれてありがとう」 

 ランスは、やや困惑気味に答えた。

「フォースタス、俺は長い間お前を許せなかったけど、見直したよ。俺こそ、余計な意地を張ってしまって申し訳ない」 

「ごめん、ランス。本当にありがとう」 

 さらに、ルシール、ベリンダ、そしてマリリンとフォースティンのゲイナー姉妹が私に会いに来てくれた。三姉妹の長女ジェラルディンはスケジュールの都合上来られなかったのだ。 

「観に来てくれてありがとう!」

「もう泣いちゃったよ〜!」

 確かに、ルシールの目元は泣いた後らしく赤みがかっている。ベリンダとゲイナー姉妹も、舞台に感動して興奮していた。

 スコットやナターシャら劇団員たちは、来客たちへの応対で精いっぱいだったが、私はふと気づいた。 

 フォースティンがスコットを見る眼差しを。スコットもまた、彼女の目線に気づいて、ほんの数秒見つめ合っていた。

【THE BOOM - 風になりたい】