フォースタスとユエ先生夫妻が自分たちの関係を清算するために、弁護士を交えて相談している時に、事件が起こった。
ユエ先生夫妻の一人息子、あのマーク…マーカス・ユエが、母親のライラさんを刺し殺したのだ。しかも、マークはフォースタスを狙って包丁を突きつけたのだけど、ライラさんがフォースタスをかばって刺されたそうだ。
その前の話し合いでも、ライラさんは「フォースタスは悪くない、私が悪いのよ」とかばっていたらしい。
私は、学校を休んだ。このままでは、壊れてしまいそうだからだ。
私は今、アガルタ特別区の植物園にいる。ここはヒマワリ畑だ。私は、精神的に落ち着くまで、アガルタにいる事になった。
「アスターティ!」
「アガルタに戻ってたのね?」
男の子と女の子がやってきた。私より3歳下の、双子の兄妹。ロジエことショチピリ、ロージーことショチケツァルだ。この二人は、古代アステカの神様に由来するその名が示す通り、ゴールディと同じ人工子宮〈コートリキュー〉から生まれたバールだ。
アガルタ生まれの普通の「官製バール」は、天然の人間と変わらない「自然な」髪や目の色の人たちばかりだ。しかし、この子たちはなぜか、淡いピンクの髪色だ。まるで、民間企業製のバールみたいに。
主にマフィアの企業舎弟であるバール製造会社が生み出すバールたちは、人間離れした色の髪や目を持っている。数か月前に起こったバール殺害事件の被害者は、薄紫色の髪に薔薇色の目の女性型バールで、彼女は、バールばかりを集めた売春組織に所属している娼婦だった。
この事件の犯人は、あるカルト団体のメンバーだと推理されている。その団体〈ジ・オ〉は、かつての白人至上主義団体や一神教原理主義団体に酷似しているらしい。「伝統的な価値観の復権」をモットーにして、女性や有色人種や性的マイノリティー、さらには障害者への差別を「正義」とする上に、結婚前の性行為や妊娠中絶手術を罪悪視し、シングルマザーやできちゃった結婚夫婦や性犯罪被害者などをターゲットにした殺人事件や傷害事件を起こしている。
「マツナガ先生が呼んでるよ」
ロジエが言う。私は、マツナガ博士の部屋に向かった。
「そうだな。お前はこういうのは初めてだな?」
私が呼ばれたのは、いつものマツナガ博士の部屋ではない。研究所の一角にある茶室だ。私は靴を脱いで、茶室に入った。
マツナガ博士はお茶を立てていた。和服姿がかっこいい。
「こんな夏に熱い茶を飲めば、ますます暑苦しくなるだろうが、ここは冷房が効いている。たまには良いだろう」
「何か礼儀知らずな事をしてしまったら、すみません」
「何、そんなに緊張する必要はないさ」
私は茶碗を受け取り、そっと口にした。
「俺の名前の由来になった奴は茶人でもあったのだが、最後には大切な茶釜を抱えて爆死してしまった。自分を単なる玩具 だとしか思わない奴に反抗してな」
そうだ。地球史の教科書に載るほど有名ではないけど、知る人ぞ知る人物。
「ゲーテのファウスト博士のモデルになった奴みたいに、爆死して砕け散った。『俺はお前のものにはならん』と言わんばかりにな」
博士は語る。
「『ファウストの聖杯』。あいつが書いているという小説のタイトルだ」
「あいつ」。そう、あの人の事だ。
「あいつは馬鹿な奴だが、根は誠実な奴だ。あいつは意図的にお前を裏切ったんじゃない。ただ、まだまだ若いあいつの事だ。あいつは自分自身の恋をしたかっただけなんだ」
「自分自身の恋…ですか?」
そうだ。マツナガ博士から名前をもらったフォースタスは、私と婚約していながらも他の女性たちと付き合っていた。数年前に起きたモノレール爆破事故に巻き込まれて亡くなった人たちの中に、フォースタスのクラスメイトがいたけど、私はその人の写真を見て驚いた。
フォースタスとヴィクターとブライアンと、何人かの中学生たちと一緒に写っているその女の子は、私と瓜二つだった。
私は、その人の代わりに過ぎないのだろうか?
「おい、トラロック! 何でそんなところにいる?」
「あ、ドクター。ついつい気になってしまいましてね」
「無作法な奴だな…。まあ、いいや。お前も来い」
茶室の窓から見える庭園にいた男の人。この人もアガルタ生まれのバールだ。この人、タリエシン・トラロックさんも、古代アステカの神様の名前を持っている。ゴールディたちと同じ人工子宮から生まれた人だ。
トラロックさんは民間企業製のバールと同じく、生まれつき人間離れした髪の色だ。水色の目は天然の人間と変わらないけど、髪が薄い紫色だ。しかし、変わっているのはそれだけではない。
右目が金色の義眼で、両手の親指と小指が金色の義指なのだ。その理由については、本人は何も語らない。ただ、軍隊にいた頃に何らかの事情があったらしい。
「それでは、改めて失礼します」
トラロックさんは、改めて入り口から茶室に入った。
この人は見た目は20歳前後に見えるが、実は30代半ばだ。マツナガ博士もそうだが、バールたちは天然の人間よりも老化が遅い。
トラロックさんは私の隣に座り、博士から茶碗を受け取った。
「結構なお点前で」
「お前が言うと白々しいな。しかも、まだ飲んでいないくせに」
「これまた失礼いたしました」
トラロックさんは茶碗に口を付けた。
「やれやれ、とんだ邪魔が入ったが、ちょうど良い風穴が空いたとも言えるな。まあ、しばらくはゆっくりすればいいさ、アスターティ」
マツナガ博士は苦笑いした。
私はトラロックさんと一緒に茶室を出て、再び植物園に行った。
「やれやれ、本格的なお茶って難しいね!」
トラロックさんは苦笑いした。
「同じ抹茶なら、抹茶味のソフトクリームの方がいいよ。君も食べる?」
「はい」
トラロックさんは、植物園の中にある売店でソフトクリームを買ってくれた。もちろん、抹茶味だ。適度な甘みが私の好みだ。
「抹茶というのは、お菓子の材料として万能に近い食材だね。こんなソフトクリームなどのアイスクリームだけじゃない。クッキーやマカロンにも抹茶味ってあるよね?」
トラロックさんは言う。
「それ自体は古い伝統の産物だけど、色々なものとの『化学反応』で新しいものが生まれる。色々な文化にも言えるね? 例えば、君が作っている音楽だって、様々な伝統が混じり合って『化学反応』を起こして出来上がったものだ。僕らが生きている世界は、そんな化学反応の積み重ねなんだよ」
「積み重ね…」
「そう、文化だけではなく、人間関係全般にも言えるね。何かがぶつかり合う事によって感情や関係性は生まれるけど、それらは何らかのきっかけでさらに変わる可能性がある」
この人は、私に伝えたいのだ。
「時が何かを解決してくれる。そう言い切れる保証はないけど、僕は君に立ち直ってもらいたい。もちろん、ミサト博士もマツナガ博士も願っているし、アスタロスやゴールディも君を応援してるよ。下手に慰めの言葉をかけても、かえって君を傷つけてしまうかもしれないと言う人もいるけど、どうか自暴自棄 にならないでほしい」
私はトラロックさんの言葉を聞いて泣いた。
「ごめんなさい、トラロックさん。みんなに迷惑をかけてしまって」
トラロックさんは微笑んだ。
「今は気が済むまで泣けばいいよ。むしろ、無理やり泣くのをやめてもストレスがたまるだけだ」 トラロックさんは私の頭を撫でた。
「ほら、ヒマワリがかわいいね。ヒマワリは種もおいしいよ」
私はすっかり涙が乾いていた。南風が心地よい。もうすでに午後4時近い。
「ソフトクリーム、ごちそうさまでした」
「ここのソフトクリームは、邯鄲ファームの牛乳を使っているからね、おいしいんだ」
邯鄲ファーム。あの邯鄲ホールディングス傘下の農場だ。邯鄲グループは、様々な業種の企業によって構成されている。そうだ、あの人。フォースタスの実家は邯鄲グループのトップなのだ。
フォースタスはあの事件以来、出版業界でもテレビ業界でも干されているらしい。そう、つらいのは私だけではない。あの人も苦しんでいるんだ。いつまでもウジウジしている訳にはいかない。
数日後、私は家に戻り、学校に戻ったが、もうすぐ夏休みだった。
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私は夏休み中も、宿題と曲作りの両立をしていた。すでに、いくつかの楽曲のレコーディングを済ましているけど、私はもっと決定的な曲がほしかった。
「Sunflower」
それが、今制作中の楽曲だ。 今は天真爛漫に咲いているヒマワリも、いずれは枯れる。だけど、花はたくさんの種を残し、来年もまた花を咲かせる。
私はデモ音源ディスクを持って、ミヨンママの部屋に向かった。
「よう、アスターティ。元気?」
フォースティンの下のお姉さん、マリリン・ゲイナーが私に声をかけた。マリリンも私も、このスタジオでレコーディングしている。
「ええ、今日は調子がいいわ」
私は答えつつも、マリリンの様子が気になった。左の頬に薄くアザがあるのだ。
ロクシーの恋愛ゴシップの影に隠れて目立たないが、マリリンは同業者である旦那さんに暴力を振るわれているという噂がある。その噂は本当なのだろうか?
マリリンの旦那さんは、彼女と結婚する前から評判が悪い。女性関係も含めて、様々なトラブルを起こしている。口の悪い人たちは、マリリンを「男を見る目がない女」と揶揄している。
しかし、マリリンは弱みを見せない。
マリリンのバンド、フローピンク・アップルズは女性ばかりのグループだ。4人編成で、彼女はヴォーカル兼ギタリストで、リーダーだ。
そのマリリンが一人の女性を紹介した。
サーシャ・スチュワート。20歳くらいの白人女性で、短い髪をピンクや紫に染めている。この人は、フローピンク・アップルズのメンバーではない。彼女はスタジオミュージシャンで、ドラマーだ。
「初めまして、こんにちは。あなたの曲を聴いたけど、クールね!」
ミヨンママが言うには、サーシャは私のレコーディングに参加するだけでなく、コンサートのバックバンドのメンバーでもあるのだ。私は、サーシャに好感を抱いた。
さらに、ギタリストとベーシストとキーボーディストも紹介された。この三人はいずれも男性で、スタジオミュージシャンだ。
ギタリストのグレアム・ボース、30歳。長い黒髪を後ろで一つに束ねている。寡黙そうな彼はインド系の血を引いているらしい。
ベーシストのトニー・ヴァージル、28歳。背の高い黒人男性で、こちらも冷静沈着そうな人だ。どことなく、アガルタのシャンゴ・ジェロームさんに似ている。
キーボーディストのジミー・フォスファーことジェイムズ・モーゲンスターン、27歳。ヒョロヒョロした細身の、いかにも知的な印象の赤毛短髪のメガネ男子。
この三人を見て、私は三銃士を連想した。
私たちのバンドの名前は〈エトラッツァ〉、私の名前アスターティのアナグラムだ。
レコーディングは着々と進んでいる。私はマイクに向かう。負けられない。私は歌う。
これで、デビューシングル『Sunflower』の音源が完成した。あとは、写真やビデオクリップの撮影だ。
私は、撮影スタジオに入った。
様々なイメージカットに、バックバンドのみんなとの演奏シーン。今までの私自身の中のわだかまりが嘘であるかのように、撮影は順調に進んだ。
私の写真を撮影した写真家は、同時に私のビデオクリップの撮影監督でもある。彼女、ステファニー・シェンカーは、ロクシーの写真やビデオクリップも手がけている。この人の旧名はスティーヴン・シェンカーで、いわゆるトランスジェンダー女性だ。この人は男性時代から、写真家や映像作家としての実績を積み上げている。そして、私のレコーディングなどを手がけている音楽プロデューサーのリンジー・シェンカーは彼女の妹だが、こちらは生まれついてのシスジェンダー女性だ。
ステファニーは、髪を鮮やかなオレンジ色に染めている。私は、かつての地球のあるポップスターを連想した。何だか、彼女自身がロクシーみたいなスターに見えるのだ。彼女はロクシーと同じく年齢不詳に見える。二人とも、ドラァグクイーンのように華やかだ。
「あなた、この虹色のベアトップワンピースが似合うね」
このボディコンシャスのミニワンピースとサイハイソックスは、お揃いの虹色の生地で出来ている。この衣装はステファニー自身が選んだものだ。スタイリストは別にいるけど、私が撮影の際に着る衣装は彼女の意見が大きい。
「虹色はね、人間の多様性を表すものなの。私みたいな性的マイノリティーだけのものではないのよ」
私たちがデビューへの準備を進めているうちに、例の事件の裁判があり、マークは少年刑務所に入った。
私は仕事と学業の両立で忙しかった。ましてや、来年は高校入試があるのだ。私は、ルシールやフォースティンと遊ぶ機会も減った。家と学校とスタジオと事務所。他に行く場所はほとんどない。仕事のために空いた穴を、自室での勉強で埋める。私はそれで精一杯だった。
フォースタス。
今、あの人はどうしているのだろう?
確かにあの人は罪深い。それに、私だけがあの人に裏切られたのではない。だけど、私はあの人を責める気にはなれない。どれだけ責めたって、時間をさかのぼるのは不可能だし、過ぎた事は仕方ない。
正直言って、会いたい。だけど、今のあの人も私も、それぞれの事情があるのだ。
来年、高校入試に合格し、入学したら、私はライヴハウスで歌う予定だ。あの事件さえなければ、私たちはフォースタスに招待状を送りたかった。だけど、今はダメ。その代わり、アガルタのフォースタス・マツナガ博士に招待状を送るつもりだ。
「あ、いつの間に晴れてる」
外は雨が上がったばかり。見事な虹が空にかかっている。私は、新しい曲を書きたくなった。 秋空にかかる虹。はかない美しさ。
私は、頭に浮かんだメロディを口ずさみ、コンピューターに吹き込んだ。このメロディを後で調整して、仮の歌詞を付ける。しかし、今は受験勉強を優先しなければならない。楽曲としての体裁を整えるのは、試験に合格してからにしよう。
【渡辺美里 - 虹をみたかい】