秀虎は胸騒ぎがした。体の芯が、いや、全身が熱い。
「加奈…?」
加奈子は、仕事帰りに買い物をしてから戻ってくると言った。しかし、今日は遅い。加奈子が戻って来ない限り、部屋の照明は使えない。そう、部屋は真っ暗だ。それだけに、なおさら不安が増す。つけっ放しのラジオはノリの良いポップスを流しているが、そんな曲を悠長に聴いている場合ではない。秀虎は、余計にイライラしていた。
自由に動けたら…。彼の体は、ほとんど再生されていた。試しに腕を上げてみる。手を結んで開いて。
何か急用があれば、電話をするだろう。しかし、秀虎はテレビドラマなどの描写や加奈子の実演で電話の使い方を教わったが、今までの自分の状態からして、使えなかった。
思い切って、立ち上がろう。秀虎は、両腕を上げて、水槽の縁に手をかけた。
「むん!」
水しぶきが上がった。床がびしょ濡れになったが、足腰に力が入らない。
「病み上がりのようだな」
秀虎は、もう一度立ち上がろうとした。その瞬間、水槽が倒れ、彼は水もろともぶちまけられた。
「くそっ…!」
秀虎は、何とか立ち上がった。体が重い。水槽から投げ出された衝撃で、体が痛い。足元がおぼつかない。
彼は部屋のドアを開け、茶の間に行った。
「まだ、本調子ではない」
秀虎はうずくまった。今の自分は素っ裸だ。体もまだ自由自在に動かせない。
彼は、暗い中で床を這った。そして、手探りで固定電話を見つけて、受話器に手を伸ばした。加奈子の携帯電話にかけようと思ったのだ。しかし、彼は彼女の携帯電話の番号を聞いていなかった。加奈子はまだ、自分がここまで体が回復しているのを知らないからだ。
しかし、仮に電話番号を聞いていたとしても、肝心の加奈子自身に何かがあったのかもしれない。何か事件に巻き込まれていなければ良いが。
「加奈…!」
急に意識が遠のき、彼は倒れた。
✰
加奈子とブライトムーンは暴走族らしき連中に囲まれた。いかにも怖そうな(これ見よがしに怖さ演出をしている)男たち。粗野で無教養で品のない「牡 の臭い」を発散する、いかがわしい荒くれ野郎ども。
あの凛華は、中学時代からこんな「悪い仲間」たちとの付き合いがあったからこそ、この手のコネがあるのだろう。そして、もし本当に「あすかももこ」=凛華ならば、ネット上でのケンカ別れを逆恨みして、何かを仕掛ける可能性はある。 実際、加奈子はももこと決裂してから、知らない人間にブログのコメント欄を荒らされた。そいつは彼女とももこのネットトラブルについて、かなり詳しく知っていた。
ももこ自身もブログの中で、その荒らしの被害に遭っていたと書き込んでいたが、おそらくは彼女の自作自演か、彼女の取り巻き連中の誰かのなりすましだ。ももこはある質問サイトで問題の荒らしについての相談を投稿していたが、あれはアリバイ工作だ。
問題の荒らし野郎は、あるインディーズバンドと同じ名前をハンドルネームにしていたが、その辺からして、音楽好き自慢をしていたももこ(彼女は椎名林檎やエヴァネッセンスなどのファンを公言していたが、加奈子もこれらミュージシャンの楽曲を好むので不愉快だった)とのつながりを感じる。 「どうか不幸せに」、それがももこの加奈子への捨て台詞だった。加奈子はこれで、「あすかももこ」という「オタサーの姫」が正真正銘の性悪女 だと確信した。
最低最悪のシナリオが思い浮かぶ。何しろ加奈子は、恋人いない歴=年齢の処女だ。こんな「安物」の奴らに汚されてたまるものか!
確かに、世の中には性的な恥辱を受けながらもなお、へこたれずに一生懸命生きている女性(や一部男性)たちはいる。中には、並みの女性以上に出世して、売れっ子有名人になった人たちだっている。
しかし、もし仮に加奈子がそのような屈辱を受けたならば、多分自殺を考えるだろう。彼女は自分を弱い人間だと思っている。仮に自殺を図らなかったとしても、「男嫌い」か「性嫌悪」のいずれか(あるいは両方)に陥ってしまい、「異性愛の女」としての将来性を完全につぶされてしまうだろう。
せっかく本当に心から信頼するに値する男性にめぐり合えたのに…。
暴走族どもは、徐々に包囲網を狭めていった。ブライティは、両腕をしきりに動かしている。彼女の手の動きに合わせて、空気が動いて風になっている。風が彼女たちを囲んでいるのだ。
それで暴走族どもは、今のところはこれ以上は彼女たちに近づけないようだ。
「やれやれ、俺の出番かね?」
加奈子とブライティが暴走族たちに取り囲まれている現場に、黒のライダーズジャケットに黒のジーンズに黒のエンジニアブーツというロック野郎ないでたちの男が近づいた。
果心は、ここまで加奈子とブライティを追いかけてきた。ブライティの風の魔力がかろうじて暴走族どもの包囲を食い止めているが、時間の問題だ。
「レディの危機にはナイトの参上…なんてのん気な事を言っとる場合じゃないな」
かつての中国・前漢王朝の初代皇帝である高祖・劉邦 には、多くの有能な忠臣たちがいた。その中でも特に功績がずば抜けていた三人は「漢の三傑」と呼ばれた。
その一人、中国史上屈指の名将の一人である「国士無双」淮陰 侯韓信 の一人息子が彼だった。
「そうだな…ここは十八番の『火』で行くか」
果心居士 、またの名を鬼一法眼 。本名は韓毅 。彼の本名は、戦国七雄の燕の名将楽毅 にあやかって付けられたものだ。
毅は、父親の罪に連座して捕らえられる直前に逃亡した。彼は父の愛妾と共に、ある山に隠れ住んだ。その後、かつて父韓信に裏切られた鍾離眜 の息子に追われ、淮水 に浮かべた小舟の上で、彼は焼身自殺を図った。
そして、「炎の魔神」として、彼は蘇った。
「加奈子にブライティ…ありゃ『背水の陣』どころではないな」
韓毅…果心は、掌から青白く輝く火の玉を浮かべた。そして、石ころのようにその火の玉を暴走族どもに投げつけた。
…ひゅっ!
一瞬にして、荒くれ野郎どもは火だるまになった。
【Evanescence - Sweet Sacrifice】