中国南部浙江 省X市。果心は借り物を返すために、ここに来た。彼は日本人「井桁毅 」名義のパスポートで、飛行機に乗って中国に上陸した。
彼の魔力ならば、飛行機にただ乗り出来るハズだが、今回はあえて「一般人」として搭乗した。
もう11月だ。加奈子と秀虎はすっかり仲睦まじい夫婦になっていた。呂尚の「戸籍工作」などのおかげで、二人はすでに入籍していた。
「来年の6月、華々しく結婚式か…」
「ジューンブライド」、それは結婚の女神ジュノーの祝福を受けた花嫁である。
「子胥殿、約束通り返しに来ましたよ」
「おう、来たか淮陰 」
アルマーニのスーツに身を包んだその男は、40歳前後と思われる年格好だった。精悍な顔立ちで堂々とした体格の偉丈夫だ。
伍員 、字は子胥 。春秋時代末期の呉の宰相だったが、無実の罪で自害を命じられた。
果心=韓毅が返しに来たのは、子胥が自害に用いた剣である。そして、彼は父韓信の出身地にちなんで「淮陰」と呼ばれる事がある。
「呂先生は元気か?」
「相変わらず元気ですよ」
伍子胥は死後、祟り神として祀られたが、呂尚の誘いで「人類の進化を司る神々」の集団に取り込まれた。彼は今、とある雑居ビルの一室にオフィスを構えている。表向きには、自分自身の子孫という事になっている人物の名義で、この一室を借りている。
「なるほど、その女はそれなりに同情する余地があるな」
「まあ、確かにそうです。しかし、手の付けられない悪霊に進化する前にぶった斬って正解でしたよ」
「魂が切り裂かれて粒子になり、再び結晶しても、また悪意と悪運にまみれるとは限らない」
伍子胥は、30センチ四方の箱を戸棚から取り出した。
「何ですか、これは?」
「アスタルテの百合だ。これをあの二人に結婚祝いとして贈れ」
女神アスタルテの霊力が宿った百合の花の球根。この花が家を守るのだ。
アスタルテの名前で果心は思い出した。加奈子が応募した小説新人賞で、彼女の作品が入選したのだ。
「なるほど、これは加奈子にとって特に縁起物ですね」
「お前ら、食うなよ。あくまでも栽培用だ。食えない訳ではないが、大切な魔除けだからな」
「分かりましたよ。本人たちに伝えておきます」
果心が去ってから、ひょろひょろした長身の男が奥の部屋から出てきた。
孫武 、字は長卿 。いわゆる「兵法の神様」孫子である。彼は、生前の同僚伍子胥と共に「春秋探偵事務所」を経営している。
「『リーサル・ウェポン』が戻ってきたね」
「ああ、冷や汗ものだよ」
孫武は台所でお湯を沸かし、ハーブティーを淹れた。
「この淮陰のお土産、マルセイバターサンドっておいしいね」
「『淮陰のお土産』という言い方は紛らわしいが、なぜ、北海道の土産物なのかが分からんな」
「いいじゃん。クリームに入っているレーズンの割合がちょうどいいから、レーズン嫌いでも『これだけは別格』という人はいるみたいだよ」
かつての知将たちのティータイムは、平和そのものだった。
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6月、大安吉日。加奈子と秀虎は結婚式を挙げた。
加奈子の伯父真一や叔母美佐子を始め、親戚たちが来た。もちろん、倫と小百合も一緒だ。ドイツに住んでいる母方の従兄「マッちゃん」ことマティアス・博之 ・ホフマンも来てくれた。さらに、加奈子の友人代表として、涼子や若菜、それに茨戸さやかや親船正章らも来てくれた。そして、若菜の母親樽川るい子も来た。他には出版社の人たちもいた。
「将来の直木賞候補かぁ~」
いえいえ、滅相もない。
それはさておき、秀虎側の招待客の中には、呂尚やブライトムーン、果心居士がいた。他の招待客は知らない人間ばかりで、秀虎ももちろん知らない。ひょっとして、果心の幻術か? 加奈子は思ったが、果心の「現代人」としての仕事仲間も何人かいるらしい。どうやら音楽業界の関係者のようだ。
披露宴でのブーケトスは、小百合が受け止めた。多分、果心が気を利かせてコントロールしたのだろう。
「あら、涼ちゃん惜しかったね」
「まあ、あの人も私も忙しいから、まだまだ考えられないね」
「あの人」とは涼子の恋人だ。加奈子は果心から涼子の実家について興味深い話を聞いた。実は不動家は、秀虎の剣術の師匠だった人の子孫だという。そして、涼子の実家は剣道の道場だ。
秀虎はこの道場に通っている。そして、涼子の恋人厚田恭介 と仲良くなった。もし、一人っ子の涼子が恭介と結婚するなら、恭介が婿養子になる可能性が高い。幸い、恭介は一人っ子ではない。
新郎側の招待客の中に、新人漫才師コンビがいた。この二人がネタを披露しているが、加奈子は意外と面白いと思った。お笑い芸人に対しては厳しい秀虎も笑っている。もしかすると、あの漫才師たちは将来売れっ子になるかもしれない。
ただ、加奈子は思う。
「流行語大賞などで悪目立ちしないでほしいな。あのイベントで優勝した芸人は、単なる消耗品に成り下がる場合が多いからね」
結婚は決して「ゴール」ではない。あくまでも「スタート」だ。自分たちの道のりは、まだまだ続くのだから。
高校の文芸部の顧問だった志美先生が、新婦・加奈子に声をかけた。
「私の教え子の中では、あなたが一番の出世頭ね!」
志美先生の親友である大物作家樽川るい子もうなずいた。
【角松敏生 - JUNE BRIDE】